un capodoglio d'avorio
2004年09月06日(月) |
"8 1/2" di Federico Fellini |
"Otto e Mezzo"、フェリーニの代表作。 わたしのボスが「ちょっとむずかしいかな」と言ってたし、 ちょっとおっかなびっくりしながら見始める。 最初のシーンにとりあえずたまげた。 これはマグリットの映画かと、シュールレアリスムかと。
シーンの美しさという点ではあいかわらず卓越している。 ただ白黒なので、正直言うと、カラーで見た作品と比べて、 つまり『道化師』や『ローマ』ほどの鮮烈さはないかな。 いや、、、それでも、いまのハリウッドのよりも、 全然、品があってきれいなのだけれど。
映画監督が主人公で、プロダクションの俗物に囲まれて、 苦悩し疲弊していく一方で、彼の過去の思い出や妄想、 夢や願望が映像として挟まれていく。 現実のシーンと、架空のシーンが交互にやってきて、 見ているヒトは現実でも架空でもない「閾」に取り残される。
フェリーニの作品を観たあとのこの独特な印象は、 この「閾」にふわふわ浮いてしまうことから来ると思った。 ハリウッドみたいに架空を押しつけられるわけでもなく、 記録映画みたいに現実に踏みつけられるわけでもなく、 グイっとふたつに引き裂いたはざまに観客は浮くのだ。
映画の構想に詰まった監督がつぶやくセリフ。
その娘を無垢のシンボルとするか・・・陳腐だ。 純粋とはなんだ? 誠実がいったいなんなんだ。 シンボリズムや純粋無垢信仰はもう古い。 ・・・娘の村には美術館があることにするか? それでその娘は美しいモノに囲まれて育ったと。。。 (娘の笑い声) そうだよな、、陳腐だよ、これも。
浮いているわたしにも、このセリフだけは生々しく痛かった。 フェリーニはとても賢い。 純粋だとか、誠実だとか、本物がどこかにあるという考えが、 その考え自体が既に無効であることを、彼は知っていた。 だから内容ではなく形式に走る、フォルマリスムの道だ。 しかしこのフォルム(≒美)の道も、 別の「本物」を生み出すに如かないことを彼は気付いている。
歴史主義や正統主義にも、そしてフォルマリスムにも頼れない。 八方ふさがりの中、それでも美しいシーンを撮らざるを得ない、 そんな監督(≒フェリーニ自身)のことが、 わたしはとても微笑ましく、そして切ないと思う。 負けるために美しいシーンで綴り続けるフェリーニ、 彼がたどり着いたラストシーンは、さすがだった。
淀川サンが絶賛したのが分かった気がした。 監督が妻に向かって、
人生は祭りだ。 共に、生きてくれ。
と語りかけるシーンは、掛け値なしに感動的、グッと来る。 そしてその後、登場人物が手をつないで輪になって、 楽隊の演奏に合わせて踊り続ける。 そして、ライトが落とされ、楽隊のひとりの男の子が残り、 その子もフェードアウトしておしまい。 このラストシーンの大団円には、すべてが詰まっている。
希望か、絶望か。 という二者択一をせまること自体が間違っている。 希望と絶望に引き裂かれたはざまでしか、 わたしたちは生きる術を知らない。 そしてもちろんそのはざまでは、 ちゃんとした希望も持てないし、絶望しきることも許されない。
けれども、美しさを添えることは許されているかも知れない。 これが、『道』を撮ったあとにこれに取り組んだフェリーニが、 到達することのできた結論だったのだろう。 だからこそ、この後に続くフェリーニの絶頂期、 『道化師』や『ローマ』はあれほどに咲き乱れる花として、 結実したのだろう。
主演のマルチェロ・マストロヤンニと、 妻役のアヌーク・エーメ、らぶ。 マストロヤンニ、かくいいなー、あんな大人の男になりたい。 で、アヌーク・エーメみたいなヒトとつきあいたい。 うー、らぶ(‥‥ってこんな締め方でええんか、わたし)。
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