un capodoglio d'avorio
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2004年07月27日(火) THE HIGH-LOWS "荒野はるかに / ズートロ" "砂鉄"

2003年6月、The Blue Hearts時代からのメンバー、key白井サン脱退。

2004年4月、自らの作品のみを扱うレーベル "Happysong Records"を設立。

危機だった。今年、ハイロウズは明らかに危機を迎えていたのだと思う。かつて、あるインタビューでヒロトは語った。快楽主義を。アナーキスムを。しかし彼は開放的な人間では決してない。なぜなら、何でもしていいんだよって語ったあとに必ず例外として付け加えるのだ「他人に迷惑をかけるヒトはそこにいちゃ、いけないの」。まるで、子供が未知なる世界である家の外を怖がるかのように。

そうしてハイロウズは、バンドの音作りを何よりも大切にし、バンドのグルーブを何よりも慈しみ、ヒロトもマーシーもソロでやれる力量がありつつもまったくそこへ向かうそぶりすら見せず、ただただ、バンドという幻想をかき抱いて10年間。10年間、それを幻想と知りつつもだからこそ大切に守ってきたヒロトだった。

白井サン脱退後、初のシングル曲である「荒野はるかに」と「砂鉄」はマーシーの作詞作曲。さすがマーシーである。ヒロトが天才・芸術家と言われるのに対してマーシーは秀才・職人と言われる所以である。曲を書いてもいつもレベルが安定していてるから安心できる(しかもそのレベルは極めて非凡と言える)。

メロディがしっかりしてる「荒野はるかに」は、もろ、危機に立たされた自らへのメッセージのような身振り。そしてメロディがよれよれな「砂鉄」・・・、どかはこれがすごいと思った。「マミー」で実現した希望と絶望のあわいを、閾を、たゆたいながら再びすくい取った曲である。もしかしたらバンドの継続すら危ぶまれたであろう状況を、きっとこの曲、ただこの曲だけで持ちこたえられるだろうとどかは確信したほど。かなりの名作、ステキなラブソングだと思う。


  マティスの窓から 忍び込んだなら
  群青のギター こっそり鳴らそう

  葉っぱの切符は 一晩有効
  あくびをしている 猫の車掌さん

  (「砂鉄」作詞作曲・真島昌利・・・より)


「マティス」という固有名詞を挿入して一気に詞世界に揺さぶりをかけ、その後すぐに「群青」という色の鮮烈なイメージをぶつける。「葉っぱ」というのはもちろんドラッグの暗喩でありつつ、かつ窓から忍び込んだときに袖についていたそのものをもイメージさせ、「猫の車掌さん」という牧歌的なイメージでそれまでの加速感を一気にズラして、かつ「サ行」の音の連鎖で余韻をきれいにまとめる・・・、いかにもマーシーである。

悲しい歌を悲しく歌ってもしかたがない。嬉しい歌を嬉しく歌ってもしかたがない。そんなことも前にヒロトは言ってた気がする。そこのあわいにたゆたって、ギターを鳴らすこと。ハイロウズの音楽はとっても自覚的である。しかし自覚的だけど限定的ではない。彼らは自覚的に、聴衆が逍遙できるような空間を生み出すのだ。だから、どかは言っている。ハイロウズは、極めて大人の音楽をやっているのだと。

しかし・・・、ヒロトの調子があがらない。今回のシングルのヒロトの曲「ズートロ」にしても「ヤゴ」にしても、どかはイマイチだと思う。いや、ヒロトが、いわゆる意味性をとにかく嫌って、バカっぽい意味無しの詞にしたかったという意志は痛いほど分かる。その方法論はまちがってない、極めて有効な、ポストモダン的手法であると思う。

でも例えばヒロト作のそういった曲である「オレメカ」や「ブンブン」と比べると、イメージの広がりがかなり限定されてしまっているように思う。バカっぽい意味無しの詞でも、ヒロトが調子がいいときは、信じられないような泣ける曲になったりするのだ。「オレメカ」はハイロウズ屈指の名曲だと思う。でも、とくに「ヤゴ」は、いかがなものかと思ってしまう。

この9月にニューアルバムが出るけれど、どかはいま、不安のが大きい。ボーカリスト・ヒロトは相変わらず無敵なのだけれど、まだ聴いていないヒロトの曲がいったいどうなるのだろうか。もしかしたら前作「angel beetle」に収録された「ななの少し上に」のような起死回生のすごい曲が隠されてるかもしれない。

でも、満塁逆転サヨナラホームランを打つには、いまのヒロトは少し、くたびれている気がするの。マーシー。ヒロトを支えてあげて下さい。キーボードの空白は、オーチャンのスペシャルなドラミングで神懸かり的に埋まっている。けれども、ヒロトのココロの空白は、きっと、マーシーにしか埋められない。

がんばれヒロト。おねがいマーシー。


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