un capodoglio d'avorio
2004年07月24日(土) |
イメージの水位@豊田市美術館 |
この展覧会に関連したプログラムとして、うちのボスの記念講演が催された。そんなわけで、ゼミ生はボスと一緒に豊田市にレンタカー二台出しで乗り込むことに。博物館業界にあって、全ての公立美術館が予算不足にあえぐなか、不況とは関わりがない唯一の館と噂されるとこ、それが豊田市美術館。
今回のキュレーションを担当した学芸員サンも、実はボスの教え子。そんなわけでこの日の夜の懇親会でも、いろいろ詳しい裏の話を聞かせてくれてとても楽しかった。どかは、この方を素でとても尊敬していて、だからこの展覧会についての感想文も、バイアスがかなりかかっていることは避けられないかと。
ともかく、良い展覧会だった。まれに見る、と言ってもいいかも知れない。とにかく「渋い」ことは「渋い」と思う。でもそれは悪い意味では無い。例えば伊藤若冲の《鳥獣草花図屏風》やフェルメールの《画家のアトリエ》みたいく、ゴリアテのようにスペシャルな作品を看板に持ってくればあっけなく展覧会の体裁はつくのだろう。そういう展覧会が上野界隈で盛り上がるのも悪いことだとは思わない。でも、それだけでいいのかなーと。
そういう展覧会に殺到する観客にまみれてどかがそこにいると、果たしてこのヒトたちは「作品自体を観たいのか」それとも「作品を観たという経験が欲しいのか」どっちなのか分からなくなるときがある(そもそも、ラッシュアワーみたいな人混みにまみれて、美術作品を「鑑賞」することなど不可能だから、ああいう光景はとてもグロテスクであるとも言える)。
そういう展覧会と比べると、この日の豊田は静かだった。期間中メインと言ってもいい、ボスの講演があるにもかかわらず。それが、悲しい。ここにゴリアテは確かにいないけれど、それでも、美術史学の最新の研究成果を惜しみなくつぎ込んだキュレーションがここではなされ、ここに足を運んだ観客はみな「作品自体を観ること」ができて、かつその先の「ちょっと考えてみる」という経験までスムースに案内されるのだもの。ゴリアテではなく、ダヴィデがたくさんそこかしこに潜んでいるような印象かな、どかとしては。
たくさんいたダヴィデのうちのひとり、香月泰男の《水鏡》。どかはずいぶん前からこの絵のファン。ジョルジョ・アガンベンの『アウシュヴィッツの残りもの』を読んだばかりのどかは、それと重ね合わせて見てしまう。アガンベンはアウシュヴィッツにおける「ヒト」と「ヒトではないもの(死体ではない)」の間に見える境界線を厳密に検証していった。その過程で、「ヒト」を「ヒト」たらしめていた幻想はことごとく打ち砕かれていく。
香月はこの絵を描いた翌年、応召され満州へ。そして彼地でソビエト軍の捕虜となりシベリアに抑留される。そこでは確かに「ヒト」と「ヒトでないもの」が限りなく混ざり合わさったはずである。ならば、この《水鏡》に描かれた少年は、水と空のあわいである水面を見つつ、何をそこに投影しているというのだろう。この作品に漂う寂寥感が、ついどかをそんなどこにもたどり着かない妄想の世界へと誘ってしまう。
香月といえばもちろん<シベリアシリーズ>という、帰国後に描き続けた一連の作品が有名だが、どかは、《水鏡》の香月に惹かれる。昨年、東京のステーションギャラリーで行われた香月の回顧展でもこの作品は展示されていたけど、どうにも、初期の佳作(《水鏡》など)→晩年の傑作(シベリアシリーズ)という直線的な流れが見えて、その歴史認識はどうなのかなーと思ったりした。
そういう意味で、今回の展示は、どかにとっては心底共感できるプランであって、「現代」という地点に立つことの意義を踏まえたキュレーションだったんだなーとどかは思うわけです(ということを懇親会で、ゼミの先輩を交えて学芸員サンと話していたのです)。
で、ボスの講演。なんだか、いつもの学部の授業みたいな感じ、ってかまんま、授業だった。思わず笑ってしまう。いや、内容はだからとてもとても濃いくて、一般の、例えば上野の美術館などでこの内容で講演やっちゃったら、聴衆はどれだけついてこられるのだろう、と思うくらい。でも、この美術館に来る人は、とっても意識が高いのだろうか、なんとなく会場の雰囲気も、呆気にとられた感は無かったのですごいなあと思う。
鏡像・影・痕跡という三つのキーワードは、ボスにはおなじみのもの。安易な断定に陥らずかつ、安直な曖昧を避けるボスの議論は、相変わらず刺激的。その学芸員サンのことも含め、自分は良い環境にいるんだなと実感した一日だった。
それ以外にも、この日はいろいろ、いい出会いがあったりして、レンタカーの日帰り往復の運転はかなりきつかったけど、やっぱりイイ日だったなと思うどか。
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