un capodoglio d'avorio
2004年07月22日(木) |
青年団「忠臣蔵OL編」 |
同じく「東京の団、西へ」ツアーの舞台、この日(7月17日)どか三つ目の観劇@アトリエ劇研。
そしてこの舞台も「ヤルタ会談」同様、どか、二回目の観劇(→青年団「忠臣蔵OL編」)。ストーリー並びに、おおまかな感想は前回のレビューを参照のこと。今回、役者サン、ひとり変わってたか、な?
この脚本は、どか、本当にとても大好きで、いろいろ青年団を観てきたけど、かなりベストに近い。50分という短めの上演時間だけど、物足りなさとかはいっさい感じない。すばらしいと思う。前回の観劇で、ただただ、大石役の安部聡子サンに惚れてしまったどかは、迷わず最前列の上手側に座った(なぜなら、大石の座席が目の前だから)。
それにしてもいい脚本だと思う。こう、優しい感じがする。年末の時代劇で良く見るようなシーンだけど、現代の感性でもういちど裏付けていくことでこんなにも微細な「襞」が見えてくる。感性とは、こういうふうに使うものだったのだ、と我が身を振り返って、思う。
大石 世間に、公儀のご沙汰の不公平さを訴えるっていうなら、 それは、突き詰めれば、そういうことになるんだよ、 格好いいか、格好よくないか。 ださいか、ださくないか、
侍C いや、そうでなくて武士道がですね、
大石 武士道なら、死ねばいいじゃん。
(平田オリザ「忠臣蔵」より)
オリザ版大石は、とっても穏やかで優しく、ちょっと頼りなさげな風情をしている。でも、抽象的な概念(武士道など)を持ち出して実際の行動へ結びつけようとする藩士に対しては、厳しい。例えばそれは「日本」という抽象的な概念をいまさらながら持ちだしてくる、某首相に対するアンチテーゼ。
日本人的なあいまいさを否定することなく、それを少しずつ建設的な議論へと結びつけていく大石の舵取りは、断定的なマチョイズムが忍び込む隙間を許さない感じ。何より素晴らしいのは、この舵取りを、あの、頼りなさげに穏やかで優しい安部サンの大石が担当することだ。すばらしい。すばらしい。
また、安部サンの女優としてのすばらしさを挙げるとすれば、お弁当である。この戯曲は、OL達が食堂に集まってそれぞれ昼食を取りながら相談するという体裁を取るのだけれど、大石は、自宅からお弁当を持参してきたという設定になっている。
そのお弁当は二段に重ねられていてこれ自体不安定、ふたはやんわり丸くなっていて、その上にお箸入れが乗るから、フラフラするのね。それを最初、包んでいるハンカチをほどいて取り出すときの仕草。そして食べ終わって、また二段に重ねてその上にお箸入れをのっけて、それを元通り、ハンカチで包むときの仕草。これっすよ。
こんなデリケートな作業を、オリザさんは自らのセリフに重ねながら行うことを安部サンに演出する。そして安部サンはこの仕草を行う間中、指先はいっさい(まったく!)震えず、かつ、セリフもきちんと、相手との間合いを取って流暢な会話が続けられるのだ。
ふつう、できません、そんなこと、できませんよ。意識の集中ではなく、分散こそが大事なんだという、オリザさんの演出論で読んだ一節が思い出される。まさにこれだ。集中とは、排除の理論をうちに含む。分散とは、そうすると包含の理論を持つのかも知れない。集中という名の下に切り捨てられることへの、透徹した視線を、常に持ち続けるからこそ、オリザさんと青年団の芝居は、どこか優しさを残すのだろうと思う。
安部サン、ほんとうにかっこいいなあ、あの「三人姉妹」とのギャップがまたすごい。役者に注目すると、もっと青年団は、楽しくなる。
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