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2004年07月20日(火) 五反田団「家が遠い」

「東京の団、西へ」という青年団と五反田団合同の関西ツアー、どかはこれを京都下鴨でつかまえた。7月17日観劇@アトリエ劇研。

五反田団という名前は、演劇に興味がある日本人なら「知らなきゃもぐり」というレベルになりつつある。なんと言っても、2003年インターネット演劇大賞(えんぺ大賞)を彗星のごとく射止めた、名実ともに一番勢いのある劇団。主宰の前田司郎サンのカリスマ的たたずまいも、つとに聞くところだった。

(どかは、とりサンやその他複数の友人からこの劇団と彼を強く勧められていて、去年東京にいたうちに、駒場で観ればよかったと後悔しきりの存在、やっと、つかまえたー!)

ストーリー・・・、というほどのストーリーは無いので書けない。そしてこのことが五反田団の革新の一端である。むりやり書くとすれば、舞台には四人の男子高校生、そのうちのひとりは人形。で、みんな、なんとなく帰りたくなくてダラダラ。そしたら、四人のうちのひとりのお姉ちゃんが出てきて、連れて帰ろうとするんだけど、ダラダラ。・・・それだけ。それだけなのに、こんなに衝撃が残る。

かつて日本の演劇界に致命的なショックを与えた青年団と平田オリザさんの方法論も、五反田団と前田司郎さんのそれを見たあとだと、少しくすんで見える気がする、ほどである。でも、前田さんを「天才」と崇めたてまつったり、五反田団を「衝撃」というストックフレーズで片づけることは、それこそ「マスコミの消費の流儀」と一緒になっちゃう。じゃあ何が、前田さんと五反田団の新しさなんだろう。

ひとつには、どかは、五反田団の方法論は青年団の延長線上にあると思う。モノローグに潜むイデオロギーを取り除き、アクシデントという名のイベントを取り除き、暗転やスポット、BGMといったたぐいの演劇的装置を取り除いた果てに浮かび上がる「空気」を、ただ観客とシェアしたい。それがかつて、オリザさんが志して、そしていま自身の劇団で、かなりの精度で実現している方法論。

そして前田司郎というヒトは、このオリザさんが切り開いて到達した地点を、自身の出発点としてそこからスタートを切ったんだと思う。・・・そう、こう書くと、かつて有象無象に存在した青年団の浅薄なフォロワーと変わりないように聞こえる。でも、前田さんが作る舞台の実際は、そのような浅薄な舞台とは似ても似つかないものとなっていて、それは前田さんの青年団という現象への正確な理解に加えて、前田さんの自分の周りの世界への視線、その角度こそを、どかはきちんと評価すべきだと思う。

「家が遠い」で、どかが一番グッと胸をつかまれた気がしたのは、男の子同志のとっくみあいのシーン。これがかっこ悪いんだ、心底。演劇では新感線とかつか芝居みたいな洗練された殺陣がよく出てくるけど、五反田団のは、ホントに殺陣じゃなくてただのけんか、それもかっこわるいの。どかも一応かつては「男の子」だったから(笑)、けんかくらいはしたことあるけど、そうそう、まさにあんな感じだよねーって見ながら笑ってでもキュウって胸がつかまれた。相手を殴るのも、ストレートとかフックとかアッパーとかじゃないのね、グーで握って金槌を打つみたいに振り下ろすだけ、それがガキのけんかの真実。でもね、やってるときは結構本気で。

こういう、どうしようもなくくだらない、身体感覚。触覚や嗅覚。こういうものを、あの青年団の静謐な世界観に巧みに馴染ませたことが、前田さんの視線の角度だ。かつて、平田オリザさんが、小劇場界に敷衍していた、唐十郎や蜷川、つか流の「特権的な役者の肉体」を排除しようとして築き上げた90年代の静謐な世界観に、もういちど21世紀の身体感覚を、新しい形に引き戻したこと。きっとこのことは、五反田団のひとつの要素として指摘することができるんじゃないかなーと思うどか。そう言う意味では、革新じゃなくて、保守ね、保守。

もちろんセリフの面でもとてもたくさん感じるところはある。こう「言いたいこと」と「口から出てくること」が少しずつずれてくる感覚、その微細な差違を少しずつ積み上げていくことで、少しずつこの限られた世界に生きる有限な自分の切なさが徐々に蓄積されていったような感覚。

こういうジャック・デリダ流のポストモダンな「ズレ」を表現しようとしている演劇人は、いまどきたくさんいる。でも、そういう人たちのほとんどが何となく頭でっかちな表現で、観終わったあとの印象がごつごつと消化しにくい感じになるのに、五反田団はスーッとどかの胸に落ちていく感じ。

きっと、あまりにもダラーッとぐだぐだな世界観に、完璧にその「ズレ」が溶け込んでいるために、観客は異物を飲み込んだことすら気づけない。そして劇場をあとにしてから、徐々にその胸のおくで、頭のなかで、身体の底で、その「ズレ」が痙攣を始める。青年団もこの点では似ている気がする。ただ、青年団もある種の「ズレ」を読み込むんだけど、それは人間関係からそれを発動するのだね。五反田団は関係性ではなく、個々人のうちにすでに含まれている「ズレ」を発動させる。青年団の切なさはすれ違いの「青」のイメージだけど、五反田団の切なさは摩擦と痙攣からくる「熱」のイメージ。

でもその辺をちゃんとどかのなかで理解するには、もうすこし、たくさん五反田団を見なくちゃかなあ。

でも、とりあえず、ひとつ、絶対思うこと。すべてが前田さんの独創ではない。けれども前田さんの革新は確かにある。前田さんは革新的な天才なんかじゃなく、極めて論理的な推論をすることのできる、偉大な保守的演劇人であること。

とりあえずはどか、このくらいしか分かってない感じ。でも大変だよー。こんなにすごい芝居を観ちゃうと、ともするとストックフレーズ(「天才」「衝撃」)で片づけようとする自分がむくむく起きあがって、それに抵抗するだけで骨が折れる。でもその苦労はイヤな苦労じゃない。だって、こんなすごい才能(あ・・・)とリアルタイムに一緒の空気を吸えるだけでも、ドキドキするものね。


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