un capodoglio d'avorio
2004年07月13日(火) |
ラブドガン(映画)ーあおいタンらぶー |
(続き)
とまあ、いろいろ思うところはあっても、どかはこの映画、らぶなワケで。もうだってさ、かわいいんだもん。しょうがないじゃん。かわいい、かわいいよ、ぜったい(とたんにひらがなが多くなる・・・)。
それほどしっかりと練られたとは思えない脚本でも、両親が殺されてその衝撃をまだ受け止めかねているという宙ぶらりんな御幸と、そこから少しずつそれを受け止めることから時間が動き出す御幸への移行を、きちんと丁寧に追っていたと思うの。
そりゃあまあ、あのあおいタンを一躍スターダムに押し上げた『害虫』と比べると、迫力や深みには欠けるかもしれないけれど、仕方ないよ、こういう脚本なんだもの。明らかに分かることは、あおいタンと永瀬正敏のふたりは、脚本を追い越していたということ。
あおいタンの演技は、つとに様々なメディアで絶賛されている。テレビでの露出が極端に少ないことから、それは他のアイドルたちと違う知名度の広がり方を見せている。けれども、宮崎あおいというキーワードに付けられるもっとも多いストックフレーズは「天才」である。「自然に役に同化してしまう天才」「こころの深い闇を表現して天才的」など。でも「天才」ってなんだ?
どかは良くわかんない。いや、わかってる、わかってるよ。彼女は確かに演技派だと思う。同じ世代で彼女よりも演技ができる女の子は、おそらくいないと思う。これだけテレビの露出が少ないのにもかかわらず、映画の出演依頼が引きも切らないのはその演技にあふれるリアリティによるものだ。でも、、、どかはストックフレーズであおいタンを片づけたくない。「天才」ってなんだよ?
声かな、、、声、好き。らぶ。ホントに無限大のチャンネルを持ってるなあと思う。普通のアイドルさんが、感情のギアを四つ、せいぜい五つしか持てなくてその五つの限られたギアのなかで一時間半の映画を駆け抜けていくとすれば、あおいタンはほんと、50個くらいのギアを持ってる。そしてこのギアを、自分の力でグイグイ力ずくで変えるのではなく、相手の演技を受けた刹那に唯一正解のギアにスッ入ってしまうというやわらかさ。声を聴いていればホントによく分かる。永瀬サンもインタビューで応えてたけど、あおいタンの声は、いいなあと思う。
でも何よりも、いいの、そんなことすら、どうでも。天才でも天才じゃなくても、こんないい声じゃなくてもいいの、どうでも。それでもあおいタンらぶーって言ってしまうこの私のバカさかげん。これがただ唯一価値のあることじゃないかしらん。らぶー。もう、あのスクーターに乗ってる姿、やばいっすよ本当に。葉山田に銃を突きつけられて・・・
葉山田 ・・・よし、じゃあ撃つ 御 幸 ・・・いいよ、心臓撃ってよ (「ラブドガン」より)
というシーンの遠くを見つめる眼差しがスッと伏せられる瞬間の、震えるまつげ。これっすよ、これー。きゃー。やーばーいー(ヤバイのは私だ)。上手く言えない。原因と結果を結ぶ糸が、その因果関係というものが、どんどん短くなって小さくなってどんどんその距離が微分された果て、全部がリセットされた砂浜の果て、氷原の先、オーロラのみがゆらめく地平にあおいタンはただ、立っている。あおいタンに価値があるとすれば、それは才能によるのではなくただ、存在によるのだわ。
ネコバ 宮崎あおいもさあ、どうなの? あの演技、つまんなくネ? 叫ぶシーンはいいけどさあ、ただのロリじゃん? ど か いいのよ、ヘタでもなんでもロリでもなんでも
存在に、よるのだから。うふ。
(いやー、やばいなーこのページ・・・、まあいいか、たまにわ)
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