un capodoglio d'avorio
2004年07月12日(月) |
ラブドガン(映画)ーポストモダン的不連続ー |
というわけでどかの7月上京の目玉のひとつ『ラブドガン』である@テアトル新宿。あおいタンは久しぶりの映画主演、去年は舞台『星の王子さま』で大変だったしねえ。
ストーリーは殺し屋サンの話。天才殺し屋で所属していた組の親分を殺して逃亡生活の葉山田(@永瀬正敏)。両親が心中したことによる内的な傷を抱える御幸(@宮崎あおい)は、父の愛人を殺して欲しいと葉山田に依頼をし、それから一緒に行動する。一方、葉山田の師匠である丸山(@岸部一徳)と、これに付き従う若手殺し屋・種田(@新井浩文)が葉山田を追う。とまあ、こんな感じ。ポイントは、ヒトを撃つときの感情によって、その弾は色を変えるという設定。地金のままなら感情無し・黒なら憎悪・黄色なら怯え・青なら悲しみ・そして赤なら愛情・・・。
それ以外にもいろいろ設定で凝っているところはたくさんある。例えば、葉山田は幼いころ、両親を殺されており(父を殺したのは丸山、母を殺したのは後に自分が殺す組織の親分)そのことで神経症を患い何でも手につくものを食べてしまった。そのうち四つの弾丸も飲み込んでしまったが、どうしたわけかそれはレントゲンにも映らず、体内にとどまったままであること。とか。組織を追われるとき弾丸も全て奪われるのだが、葉山田はその後この四つの弾丸を胃からひとつずつはき出しながら撃っていく。とかね。
まあ監督の渡辺謙作氏は、とかくポストモダンしたかったんだろうなと思うどか。こういう超常的な設定自体もそうだけど、例えばシーンの繋ぎ方も極めて断片的に、かつマニエリスティックな凝ったアングルからのカットを多用する。最近のサブカル的映画に馴染んで無いヒトだったら、ちょっと酔っちゃいそうな感じ。どかは別に馴染んでるわけじゃないけど、最初の数分で監督の志向が見えたので、普通に眺められたという気がする。
そういう風に、何か規範的なものがあってそれをズラしていくという姿勢は素晴らしいと思うんだけど、でも、渡辺氏はそれで終わってる感じがちょっとあるなあ。
いや、いろいろ面白いシーンはあったんだけど、どかが一番気になったのはセリフの彫琢。<非連続>というポストモダンの大前提を踏まえたいのであれば、もう少しセリフ、刈り込んだほうがいいと思う。後半にとくに、ちょっと過剰な説明セリフが多い気がしたなあ。映像だけで語れるほどに良いカットもあっただけに、残念。ちょっと弱気になっちゃったんだろうなあ、もったいない。
でもまあ基本的に、どかはアリかなあと思っていたわけで。ところが一緒に観に行ったネコバは、かなり辛辣。曰く、エンターテイメントなのか、泣かせたいのか、どっちつかずの中途半端で胸くそ悪い。ああいう思わせぶりな(ポストモダン的な)技法やカット割りは、サブカル好きの映画好きの自己満足を思わせて気持ち悪い、ああヤダヤダ。大体あんたもあんたよ、まった(略・・・以下、私への個人攻撃、なぜに?)。
ともかく。
SABU監督ほどにまだ自分の方法論が定まっておらず、いわゆるサブカルちっくな手法の悪いところが若干顕在化しちゃったというのは否めないかと。でもどかは好きよ。だってさ、だって・・・
(続く)
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