un capodoglio d'avorio
2004年07月11日(日) |
つか「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事」(稽古場公演)後編 |
(続き)
なぜに賭は負けだとするかといえば、それは「うーん、いい火加減だ!」の響きが、客席からどうしても遠かったとしか言えないからだ。つまり、劇中のエピソードの重たさを救い切れていないとどかは思う。もっと端的に言えば、伝兵衛は水野サンを本当に奪ってしまうのか、それともポーズだけなのか、伝兵衛は榊原に譲るべきではないのか、その類の疑問を客席に与えてしまう時点で、この賭は負けてしまっていると言えるだろう。
そして恐らく成志伝兵衛はその昔、紀伊国屋の客席に対してその類の疑問ではなく「このヒトならもう、なんでもいいよ!」と心の底から微笑んでしまうような、そういう響き方をさせていたはずなのだ、このセリフで。
あっクンは上手くなった。たくさん舞台を踏んで、北区の役者特有のもったりしたクセも抜けつつあり、良い意味での余裕が感じられる。たしかに一瞬刹那を見ていけば、あっクンよりも強い役者はいると思う。とくに榊原役のソンハさんなどは、多くのシーンで伝兵衛を凌駕してたと思う。けれどもトータルで見たとき、あっクンがやっぱり伝兵衛なのだ。パチンと弾ける感じが稀薄でも、あまねく光を隅々まで届けていく責任感を感じる。上手いなあと思う。
でも・・・、どかは昔のパチンと弾ける感じが好きかなあ。脚本もあるんだろうな。水野を失う悲しみで一気にパチンと弾けてしまうワケにはいかなくなっちゃったもんな、今回は。確かにそのホンの改訂に併せるかのように、あっクン自身のスケールもアップしたんだけど。イマまで感じていた前半のスカスカ感も無いんだけど。それでも、最後のセリフはまだ遠かった。あっクン頑張ったんだけどなあ。いい笑顔してたんだけどなあ、最後。でも、うーん。あっクンだけの責任じゃない、脚本もちょっと無茶すぎたし。前の脚本でパチンと弾けて殺気を漂わせるあっクンのほうがどかは好きだな。スケールアップするためにパチンを失ってしまったこと、これは敗因のひとつだと思う。
そしてもうひとりのエース、岳男サンは危なげなく。色悪としてのスナカメ。被差別者としてのスナカメ。金正日に愛憎半ばするスナカメ。捜査室に朝鮮と日本、現代と過去というふたつのパースペクティヴをもたらすキーマンを演じきって、危なげない。とてつもなく大きいストーリーを背負わされているのに、見ていて不安が無い。水野役の黒木メイサさんが危なっかしいなあと思う瞬間が多々あるのと比べると、その差は鮮烈。スケールという点で言えば、いくらあっクンが大きくなったからと言って、このヒトの域には及ばない。
でもなー、去年の岳男サンの伝兵衛を見てしまったあとではなー。うーん。いや、このヒトはスケールもすごいし、パチンもあるんだけど、この役どころだと、岳男サン自身が全てにおいて溢れちゃって、いくら重たいストーリーを背負わせてもどこか過剰すぎて、、、自信というか自負が前面に出過ぎちゃうんだなあ。鼻につく、、、ほどでも無いんだけど、プライドというか自信。岳男サンに罪はない。他の役者の「受け」をほとんど要求されないスナカメという役どころが、ミスキャストなのだろう。伝兵衛か、もしくは容疑者大山役が良いのだと思う。
ソンハさんは好演、あれは好みが分かれるだろうけれど、どかはあのハスキーボイスは好き。細くないから。友部サンは危なげなく。滑舌はもはや仕方ないのだろうけれど、芝居を受けられるという点で、やっぱりさすがの存在。黒木メイサ、どか、だめ。いや、どかは水野役の女優には厳しすぎるのだろうけれど(どうしても金泰希サンと比べてしまうから)、あのクセのあるしゃべりは何とかならないのか。チャンネルがひとつしかない。他人を責める口調はなかなかいいけど、愛しさや優しさを出さなくちゃなシーンでも同じ口調で話してしまうのはいかがなものか。つかサンがこのヒトを贔屓にする意図が分からない(なぜ泰希サンを使わないのか、理解できない)。
とどのつまり、あっクンの「攻め」のパチンの無さ、岳男サンの「受け」の機会の無さ、あまりにも苛酷な脚本の要求、その裏返しとしての、現代という時代のあまりにも救いがない酷薄な社会、そんなこんなの複合技でつかこうへいは一本とられてしまって負けてしまった舞台だった。でも、ちょっと残念だけど、満喫できたのは確か。だって、いまの時代、ここまで時代のエッジに自覚的に立って綱渡りを試みる存在は、野島サンとつかサンくらいしか思いつかない。二人とも負けがこんできてるんだけど、それでも彼らが勝負を続けるのであれば、わたしはそこに立ち会っていたいなと思う。
そんな感じです、以上。
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