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2004年06月27日(日) 企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜最終話 2

(続き)

野島伸司という脚本家は、極めてモダニスム的な側面を持っている。つまり彼個人には一貫して追求しているメッセージがあり、表現として提示される作品にそれを反映させようとする点のことである。作品ごと、その場ごとに、自分をリセットして執筆できるほどに、彼は器用ではないとどかは思う。

そして、ここ2年くらいの野島サンのテーマは、常に一貫している。それは<情緒レベルの選民思想の妥当性と限界>である。とくに自身初の小説『スワンレイク』でそれは明確に提示されたのである。

生粋のロマンチストである野島サンは、本当の愛や、真実の信頼関係というものを、これまでのドラマのなかでつきつめて追求してきた。その結果、真摯にその「本当」だとか「真実」を追い求めていくことで、自身がどんどん袋小路に追いつめられていくのを、自分の醒めた目が認識してしまったのだろう。つまり、「感受性」が低い人間や「情緒レベル」に劣る人間が、よりよき世界の成立を疎外しているというアイデアに、彼自身が囚われてしまったのである。

こういう風に書くと、大げさな思想のように聞こえるけれど、でも実はいま現在、この手の選民思想に「軽く」犯されていないヒトを探そうとするとそっちのほうが難しい。J-POPのオリコンチャートを批判するヒトや、美術を鑑賞しに美術館に足を運ぶヒト、古い名作の映画を鑑賞するヒト、小劇場系の舞台を褒めそやすヒトは、多かれ少なかれ、この思想に犯されていると言っても過言ではない(もちろん誰よりもまず、この文章を書いているヤツこそ)。

そして野島サンは他の誰よりも、この「本当」と「真実」を欲してしまった結果たどりついた、緩やかな袋小路にあって、それをいかに克服できるかを舞台を変え、設定を変え、テレビ局を変え、問い続けている。野島ファンのあいだでは評判の悪い『プライド』でさえ、そうだったとどかは考えている。そして『プライド』で野島サンは、敗北した。かろうじて「古き良き時代」というイデオロギーを粉砕することはできても、別の情緒レベルを設定せざるを得なかった。フジのドラマ班の要求するハッピーエンドを実現するために。

そして『仔犬のワルツ』である。『プライド』で敗北した野島サンは、二度と同じ轍を踏むわけにはいかない。だから、この桎梏に挑戦するために、あまりにも、あまりにも直接的なプロットを設定したのである。つまりまさに情緒レベル・感受性という<伝説>と直結する、「芸術」というテーマである。

(さらに続く)


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