un capodoglio d'avorio
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2004年06月26日(土) 企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜最終話 1

いままで企画にとどまっていた野島サンが、自ら書き下ろした最終話。各シーンの緊密さ、ひとつ一つのセリフのテンションなど、それまでとはまったく違うドラマになっていた。

でもこのことは、これまで脚本を担当した若手作家の力量不足のみに帰せられるべきではない。それよりもきっと、野島サンが企画に向いてないのだ。いっさいの弛みを排除したところに辛うじて成立するその理想的世界観は、野島サン自身が全ての細部を監督することによって初めて具現可能なのでしょう。

さて、某ファンサイトでも喧々囂々の議論が尽くされていることからも明らかなように、この最終話はいくつもの「ツッコミどころ」を含んだ重層的なものだった。放送終了直後にはかなり錯綜していた議論の結論も、某管理人サンのこれ以上ないすばらしい「まとめ」のおかげで極めてスッキリ示されている。

つまり、教会に火を放ったのは唱吾だが、一連の殺人事件の犯人は芯也以外にありえないし、葉音は譜三郎と律子のあいだに生まれた「不義」の子供であり、ノッティは鍵二とダンサーのあいだに生まれた「幸福」の子供。

しかし、それでも謎は残る。ラストシーン、葉音と芯也はどうなったのか?一発だけ響いた銃声はどこに向けられたものだったのか。芯也は自殺したのか、葉音が殺されたのか、二人は心中したのか、それとも虚空に向けて撃ったのか。

この視聴者に完全に委ねられたラストシーンのつくりかたは、まさしく'03と'93のふたつの『高校教師』のそれに類似するものである。とくにかつて、かまびすしくも話題になった'93のラストシーン、真田広之と桜井幸子のふたりは電車の中で心中していたのか、それとも眠っていただけなのか、視聴者がどちらの結末を支持するかでその視聴者の根本的な世界観が透けて見えてくるという構造。今回のラストシーンも、構造としてはまったく同じである。

某ファンサイトの掲示板や、管理人サンのレビューの感じだと「虚空に向けて撃った」という結末を支持するヒトが多いみたい。このドラマが<真実の愛>というものをテーマにしているのであれば、確かにこの結末が妥当だとどかも思う。罪も絶望も悪もすべて、包みこむほどに愛が深いという点において、例えば『この世の果て』のまりあのように、理性や感情をも超えたところに愛があるという点において、この結末を支持したいというのであれば、その感想には一定の合理性があるとどかも思う。

でも、どかはこの結末を支持しない。なぜなら、今回のドラマのテーマは、決して<真実の愛>ではないからだ。そうではなく『仔犬のワルツ』というドラマの本当のテーマは<情緒レベルによる選民思想の破綻>である。

(続く)


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