un capodoglio d'avorio
2004年06月28日(月) |
企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜最終話 3 |
(続き)
自分の正体を明かした鍵二は、教会で世の人間たちを激しく糾弾する。
鍵二 愚かにも勘違いしやすい人間は、時に自分が神に近づいたと、 悪魔に愛されていると錯覚する そうして他人を攻撃する 一方でテロを起こし、一方で侵略戦争を起こす もううんざりだ、ツマラン人間ども・・・ (野島伸司「仔犬のワルツ」最終話より)
そして圧倒的にすぐれた芸術で、この愚かな人間たちを一気に教化してひれ伏させようと試みる。
鍵二 そうだ、圧倒的な力の差で思い知らせてやるんだ お前たちは、ただ静かに暮らしていればいいと それこそが芸術家の使命 音楽家の最高到達点だ (同上)
これまでの展開の中で、ショパンやモーツァルトやバッハに引き寄せて常に芸術の至高性・絶対性を確認してきたシナリオにあって、最終話のこの鍵二のセリフは意外でも飛躍でもなんでもない。そう「アート」を崇め奉っている人間の帰着するところは、ここしかないんだよね。つまり、野島サンはここで、<情緒レベルの選民思想>ではなく、<情緒レベルの帝国主義>を打ち出したと言っていいと思う。でも、前提は同じ。「感受性の低い奴らがより良い世界を疎外している」という点に立っているんだなあ。
しかし、野島サンのなかの、もうひとりの野島サンは、葉音に憑依してこう語る。
葉音 間違ってる あなたは間違ってる、それは音楽の役目じゃない あなたの言っているのは洗脳であって 酷いことをする人たちと変わらない (同上)
では、もうひとりの野島サンにとって、芸術とは何なのか。
葉音 そして教わったの 憎むよりも、愛することを・・・ (同上)
結局、ここに持ってくるしかできないのだ。不義の子供として生まれた、その報いかのように生まれつき目が見えない葉音。その彼女の感受性はなによりも愛することに向けられたという。一見、究極の宗教的境地に到達してメデタシメデタシのように思えるかもしれないが、これは堂々巡りにすぎない。そもそも、野島サンは「じゃあ本当に愛することっていうのは何?」という地点から出発してきたんだもん。
もちろん野島サンがモダニストであるかぎり、堂々巡りは敗北である。モダニストは何かを追求して前進することに自己の存在意義を見いだす人種であるからだ。このことを認識できない野島サンではない。ここが、どかが、このラストシーンは芯也の自殺であるととる根拠である。野島サンがこの最終話でたどりついた葉音の「愛」とは、すでに彼自身がこれまでの作品のなかで否定してきたものだからだ。
けれど、誤解しないで欲しい。どかはだからといって「仔犬のワルツ」が駄作だとは思わない。この最終話に限って言えばむしろ、これまでの野島サンのキャリアの代表作としてもいいくらいだとすら思っている。なぜなら、いま現在の彼のテーマ<選民思想>を、これ以上ないほど自身に苛酷につきつけて、それと向かい合ったリアリティがみなぎっているからである。
ラストシーン、銃を葉音に突きつける芯也。芸術の至高性に懸けて殺人を繰り返してきた芯也だから、葉音に愛着はあっても、彼のポリシーに従えばここで躊躇無く引き金を引けたはずである。
葉音 あたしを愛してると言って 芯也 僕は・・・ 葉音 言葉に出して言って 芯也 助けてくれ、僕は・・・ 葉音 私の目を見て (車のスピーカーから♪グロリアが流れてくる) 芯也 クソッ、なんてことだ 葉音 芯也 芯也 葉音 葉音 そう・・・ 芯也 君を・・・愛してる (同上)
しかしそうはならない。鍵二が崩れ落ちる炎の教会で死んだ時点で、<情緒レベルの帝国主義>は朽ち果て、そして♪グロリアを聴いた芯也がここで銃を下ろして葉音に背を向けた時点で、<感受性の選民思想>も底が割れた。このドラマが寓意的な性格を強く宿しているという意味において、野島サンがモダニストとしての脚本家であるという点において、だからこそ、芯也はこのあと、必然として、死ななければならないのだ。どかはそう思う。
(もすこしだけ、続く)
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