un capodoglio d'avorio
2004年06月19日(土) |
企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜第10話 |
例によって大時代的な演出によるチープなメロドラマは進行する。けれども忍成クンの演技が、だんだんすごくなってきた。ひとりだけちょっとレベルが違うところで、ひとつ上のレイヤーで演技をしているとすら思える。
忍成クン演じるところの知樹が覆面の幸子に入れ替わっていたというオチで、そのプロット自体には見るべきものは何もないけれど、でも、彼の演技にはグーッと目を奪われる。そう、ちょっと『リップスティック』のときの窪塚クンの演技に近い感じ。浅薄な思わせぶりな表情の翳りではなく、遠くを見つめる瞳から内面への距離感を出せるという反比例の法則。ともかく第10話の忍成クンは、ベストだった。
それに比べてうーん、「リリィシュシュ」コンビの相棒、ノッティ役の市原クンはオコチャマだなあ。セリフはたくさん回してもらってるし、ピアノバトルでもついに最終戦まで残してもらってるし、葉音の「悪魔」に対して「神」という<忌み名>までもらってるんだから、頑張って欲しいなあ。まあ市原クンという役者個人の射程からはおおよそかけ離れすぎてる役どころだというハンデはあるんだけどなー(忍成クンははまり過ぎか)。
あの人の心は私にはない 何をどう努力しても、このピアノを弾き続けても、 あの人の心は私には来ない それならばなぜ、あの人の側に私を? 後でがっかりさせて、それをどこかで見ていて、喜んでいるの? そうだとしたら、あなたは神様じゃない・・・ 神様なんかいない、私は認めない (「仔犬のワルツ」第9話より)
ピアノバトルのさなか、葉音のモノローグ。幼少時代から葉音がずーっと思い続けてきて、そしてついに心を通わせることができたと信じていた芯也には、実は別に本当の想い人がいたことが分かったという状況。パッと見、普通のセリフなんだけれど、どかはやっぱりこのドラマのモノローグは、野島サンだなーと思う。だって、葉音は決してここで、芯也自身にではなく、その矛先を神に向けるんだもの。この距離感。グーッとでずれていくパースペクティヴ。
野島サンの作品は、不必要にむごくて辛すぎるという批評があるとすれば、それはあたらない。なぜなら、それは「必要」だから。つまり、登場人物が神とサシで向かい合えてしまう場面やセリフを生み出すためには、それほどに救いのない悲しいシチュエーションが必要だからだ。そうでなければ「日常」のパースペクティヴは動かすことなんかできない。
誤解の無いように言うけれど、このドラマではけっしてその試みは成功していない。なぜなら、なっちはかわいいしきれいだなーと思うけど、演技に切迫感は無いし、西島サンも整った顔をしていてきれいだなーと思うけど、やはり演技に切迫感が足りない。観ている人は頭で「かわいそう」とは思えてもそれを心に持ってきにくいんだなあ。でもどかは、野島サンという脚本家への絶対の信用にかけて、このモノローグをきちんと受け止めたいと祈る思い。
報われなくてもいい、そう思ったこともあった だけど本当は違う 傷つかないために、先回りしてそう言ってただけ そんなこともわからないなんて わかっていて、そんな現実を突きつけるなんて・・・ あなたは神様じゃない 絶対に違う・・・違う・・・ (同上)
先の引用の続き。でもね。。。イタイなあとは思う。「そんなこともわからないなんて」というフレーズは、すばらしい。うーん・・・。
野島サンはクリスチャン。そして常に第一に考えるのが「フェアネス」だ。公正さ、というよりもフェアネス。これが崩されていく風景、そして崩されてしまったそれをどう補填することができるのかということを常に創作のモチベーションに据えてきた。この葉音のセリフは、あるすさまじい決意に裏付けられている。
何が何でも、芯也を責めない。なぜかと言うと、そうしてしまうと、自分を哀れんでしまうからだ。葉音はぜったい、自分自身を哀れむことをしない。だから、この一見、普通の悲しいモノローグなのに、どこか他の脚本家が書くセリフと違う色合いになってくるのだ。けっして自分自身を哀れまない。そしてまっすぐ「フェアネス」の在りかを問うこと。そこで踏みとどまること。どれだけ負けても、そこで、踏みとどまること。
あとは、もう観る人の個人的経験や思い出にかかってくるのだと思う。どかは「そんなこともわからないなんて」というフレーズに、一気にもっていかれてしまった。それは別の言い方をすれば、一気に過去のある瞬間に自分の一部が引き裂かれてしまったと言えるかもしれない。
ううん、ちがうな。
引き裂かれていた自分の一部が、このいまの自分を、呼んだんだよな。「大切なものは、何だったんだい」って。
さて、来週は、最終回だ。
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