un capodoglio d'avorio
2004年06月12日(土) |
楳図かずおのポストモダン |
人間社会基礎論のリレー講義で、映画論の加藤教授が来た。門外漢のどかでも知ってる「有名」教授。で、講義のテーマはご専門の映画ではなく、マンガ。ふむ。日本マンガにおける三つのピリオドを設定し、かつコマワリやアングルの設定などの細部を分析することで、大きな流れをとらえていくというオーソドックスなカルスタの手法。
1:primitivism (40s〜) 初期の楳図かずお
2:modernism (60s〜) 石森章太郎(手塚治虫・ちばてつや)
3:mannerism (80s〜) 荒木飛呂彦・花輪和一(後期の楳図かずお)
じつはこの講義の裏の主人公は、どかも吉祥寺で幾度と無くすれ違いざまに目があった(にらまれた?)楳図サンだった。プリミティヴィズムから出発した楳図サンだったけれど、そのキャリアの初期からすべからく「ポストモダン」な徴候を織り込んでいたという議論はうなずける。
また、楳図サンの「ポストモダン」を説明するときに、キャラの瞳の描き方に注目して<お星さまの目>に対して<太陽の目>と名付けたところも、ちょっと脱帽。というか、素晴らしいレトリックの力を持ってるな、このヒト。というか、その言葉のセンスに、どか、久しぶりに嫉妬した。むう、上手い。
楳図の破砕された瞳から放射されるのは、 太陽のプロミネンスであり、フレアなのだ
上手すぎ。くう。
また、モダニスムの症例として、手塚ではなく石森を持ってきたところも「マンガ読み」としてのセンスを感じさせるところ。すばらしい。
一気呵成に日本マンガの流れを描ききってしまう手法はあざやかで、マンガをアカデミックに語れるのは、日本では夏目房之介サンのみだと思ってたどかは、軽くショック。
でも、無い物ねだりだけど、文句もある。マニエリスムに触れるのであれば、荒木・花輪も重要だけれど、松本大洋は避けて通れない参照点ではないのかしら。もしくはモダニスムにおいて、萩尾サンや大島サン、山岸サンなどの少女マンガの系譜を無視しているのも、ちょっと居心地が悪い。
でもとにかく、加藤先生の言葉のセンスには、嫉妬。
ジェラジェラ 笑
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