un capodoglio d'avorio
2004年05月22日(土) |
企画・野島伸司「仔犬のワルツ」〜第6話 |
どか自身の感情移入するときの跳躍力が落ちたのかと思ったの。野島ドラマなのに、なぜこう、グッと巻き込まれないのかと。どかの中でチューニングが少しくるっちゃってるのかと。で、先日、少しだけ「高校教師'03」と「ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ」のVTRを観直してみたら・・・、そっこう号泣(笑)。良かった、アンテナが折れた訳では無いらしい。
さて、それをふまえつつ、第6話などをぼんやり見ていたのだけれど・・・、ひとつ、気付いたことがある。これは、入れ子構造になってるのではないだろうか。つまり、野島サンの本気のメッセージを、チープで浅薄なサスペンス仕立てのメロドラマでくるむという構造。そして、このメッセージとメロドラマとの間の連関は、かぎりなく薄くて無いも同然である。
メロドラマとは、もちろん例の、東都音大の学長をめぐって実施されている特待ピアノ生徒選抜試験の「ガラスの仮面的展開」や、それに絡む殺人事件を描くサスペンス色の強い「火サス的冗長演出」などのなんやかや。登場人物を演じる役者の、半ば冗談のように信じがたいほどの大根ぶりも手伝って、もはや感情移入などというレベルの鑑賞は不可能である。寓話っぷりにもほどがあると、どかはここに宣言したい。繰り返すけど、どかが言ってるのはストーリーの中の俗物なキャラクターたちの俗物さではなく、ストーリーそれ自体が箸にも棒にもかからないのだということ。
しかし、この一方の極の内容が漸近線を取ってどんどん「無」に近づいていくほどに、もう一方の極である野島サンのメッセージの「重さ・真剣さ」が際だつというアイロニー。CMを除いた、およそ50分弱のドラマのなかで、その45分までを捨てて残り3分ほどの葉音のセリフのみを生かそうという極めてラディカルな演出プランとして見ることも可能では無いかと(制作側が意識してそんなことするわきゃないけどさ当然)。
葉音 怖がらないで、暗闇を、怖がらないで 大丈夫、暗闇はあなたの友達 哀しい時、寂しい時、苦しい時、逃げ出したい時、 暗闇はやさしいマント、あなたをかくまってくれるやさしいマント ここに居れば大丈夫、誰にも見つからないよ 哀しくて悔しくて、涙が溢れても、誰にも見つからない 私は、暗闇、生まれながらの暗闇 むしろ怖いのは、光 どうかお願いです、私を怖がらないでください 私を怖いと思い、ひとりぼっちにさせないでください そして、同情もしないでください、私も、誰かを愛したいのです (「仔犬のワルツ」第4話より)
これは「選抜試験」の行きがかり上、真っ暗な小さいハコの中に入れられた葉音のモノローグ。そして次のモノローグは、同じく「選抜試験」の途中、ピアノの上に置かれたバラのつぼみに向かって話しかける葉音・・・、
葉音 水をくれて、朝にはおはよう、夜にはおやすみって そうやさしく笑いかけてくれる キレイに咲いたら喜んでくれる 喜んでもらえるから、キレイに咲こうとする それは、本当にあの人じゃなければいけないということなの? あの人のたくさんの花の中から、あなたを選んでくれたとでも言えるの? それはただの偶然なのに、あなたは運命だと信じているの? <中略> 自分が信じたんだから仕方がないと、諦めて散っていけるの? その後であの人がまた、新しいバラの花に、いとしそうに水をあげてる そんな風に想像したりはしないの? ねぇ、どうして黙ってるの? 誰かに打ち明けたいとは思わないの? どうして信じられるの? どうして愛されてると・・・ (「仔犬のワルツ」第6話より)
じつはどちらのモノローグも、この前後にさらに長く続いている。もはや明らかなように、それぞれの葉音のセリフはもはや、単なる暗いハコに閉じ込められた友人をなぐさめるためであったり、なかなか咲かないバラの花への単純な随想では無い。もっと大きな流れ、深い断絶、愛や永遠、孤独といった抽象的な概念への純粋思考である。それはやっぱり、浮いちゃうよ、このモノローグは。それまでのメロドラマとも、そのあとのメロドラマとも、まったく繋がりが見いだせないんだもん。設定では葉音は自分の庇護者である芯也に慕情を抱いているということになってるけど・・・、芯也はこんな深く強い流れを受け止める度量は皆無だし、葉音自身もこんな深く強い流れを抱いていられるような度量は皆無に見える。つまり、、、言葉(ロゴス)だけがぽっかり空中に浮いているのだ。
そう言う意味では、なんてアヴァンギャルドなドラマなのだろうと舌を巻くどか。そうなのだ、この「仔犬のワルツ」というドラマは、なんとドラマではなく、野島伸司の詩集朗読番組だったのだ(笑)。
そして、それだけで、この番組は存在価値がある。少なくともこのクールでやってるほとんどのドラマよりも存在価値がある、とどかは考える。いや、冷静にそう思います。野島サンの詞(詩)は、その理想主義が両立する過剰さと繊細さによって、高度消費社会の消費サイクルから紙一重でまぬがれているから。
逆に言うと、このサイクルからまぬがれるためには、45分というドラマの他の部分のほとんどを、そしてなっち含む登場人物のほとんど全てを人身御供に差し出すことが必要だったのかもしれない。ふむふむ。
あ、でも岡本健一サンと忍成修吾クンの演技だけは、救われている気がする。45分の側にいる限り、彼らにとって勝ち目のない戦いなのだけれど、それでも彼らの演技は、見ていてクッと引き込まれる。
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