un capodoglio d'avorio
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2004年05月21日(金) 青年団リンク・地点「三人姉妹」

「何故にそれが有効かは分からないけれど、如何にそれが有効かは分かるということ」。きっとそういうことを先人たちは「洞察」と呼んだのだろう。現代を生きる私たちにもっとも要求される能力のひとつである。

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ソワレ@アトリエ劇研、授業終わってルネの前からバスに乗って下鴨へ。キャンセル待ちでちょっとびっくりしたけど、何とか入れた。というか、青年団のブランド力の強さに感心。というか、東京以外でこの「たぐい」の舞台がここまでの集客力を発揮する京都という土地がらに感心。さすが学生劇団密度日本一の街。

地点、とは青年団演出部に所属している三浦基サンが演出する作品を上演するプロジェクトのこと。平田オリザ氏はあくまで総合プロデューサーという裏方にまわる。どかが今回この芝居に反応したのは、青年団というブランド名というよりは、その役者。だって、、、山内サン、安部サン、兵藤サン、太田サン、島田サンなどなど、青年団の1軍が集結。しかもどかのお気に入りの大庭裕介サンを久しぶりに見られるとあっては。

しかし、どかのその期待値は、予想だにしない形で破砕される。三浦サンの演出は、神がかっていた!その奇抜で特異なスタイルは、噂には聞いていたけれど、そして案の定たしかに奇抜で特異なんだけど、思っていたよりもはるかにそれが効果的、効果的というよりもこれは、、、なんというリアリティだろう。

青年団の舞台の特徴に、客入れの段階から、すでに舞台上の世界で時間が流れているということがあるけれど、この「三人姉妹」では、完全に時間は止まっていた。オリガ、マーシャ、イリーナの三人が、きゅうくつそうな台車だかサイドテーブルだかにコンパクトに足を折りたたんで「不自然」に凍結されている。その三人の向こうには左右に大きな綱が渡されていて、その綱に無数の外套や衣類がハンガーでぶら下げられており「壁」となっている。席に着いたどかは、この一幅の「絵画」と相対するわけだけれど、すでになにかしらのアウラがビシビシ感じられる。芝居が始まる前から、すでに感動してしまっている。そしてどかは不安になった。ここまで「掛け金」をレイズしてしまって、大丈夫なのかしら、、、と。

全然大丈夫なんだなーそれが。その「絵画」で開演前に客席をあおるだけあおった三浦サンは、その後の舞台でさらに「掛け金」をつり上げてどんどんどかと観客をその三浦ワールドへと引き込んでいく。

さて、その演出法は、、、いちばん大きな特徴はセリフ回しにあるだろう。解体、切断、分離、停止、滞留、という言い方で伝わるかなあ。例えばね、


 いー、つっ、になったらわた、し、、、たちはもす、くー、ヴァっ、、
 にいけるのかしー、らー


という風にセリフを解体して、句点読点をいったんぜんぶ御破算にするのである。解説するとしたらこんな解説しかできないのだけれど、でもきっと、これを読んであの演劇的効果のすさまじさは想像できないだろう。さいしょはビックリするけど、観客のなかで心のざわめきが納まってしまえば、あとの1時間はワンダーワールドへ沈潜していくことの快楽に浸ってしまえる。

この演出が、何を目指しているのかは、分からない。分からないけど、この演出でどかが何を感じたかはおぼろげながら言葉にできる。それはただ、ひたすら「テクスト」の強度を増す効果があった。句点や読点に潜んでいる、いわゆる普通の意味での演劇的なコンテクスト、それは感情の流れであったり、身振り手振りだったり、視線や沈黙だったりするのだけれど、この演出はそんななんやかやを「無かったこと」にしてしまう。そして残るのは、チェーホフというひとりの劇作家がかつて書き記した言葉、音だ(もちろんこれは戯曲なのだから、発話されることを前提に書かれている)。

どんなに分断し、スピードの抑揚が「突飛」で、ときにメロディの節が「関係なく」着いたり、怒鳴った次の瞬間にすぐ小声で同じセリフの続きを発声したり、、、そんなことでセリフがセリフであることを辞めたりはしないのだ、これがさあ。逆に、そこに当たり前にあると思いこんでいた「余計なもの」が、そぎ落とされていくこと、19世紀末の帝政ロシアの片田舎「っぽさ」などという予定調和や、翻訳劇につきまとう新劇「チック」な予断が入り込まないほど純化されて、結晶化に向かうことで、セリフのセリフであるということが浮き彫りにされていくのだ。

うーん、伝わらないと思う。これはでも、たしかに映画にはできない、もちろんテレビドラマにもできない、演劇にしか許されない可能性の追求のかたちだ。

もすこし、比較対照とぶつけてみてこの「三人姉妹」のスペシャルさ具合をあぶり出すとすれば、そう、先日おなじアトリエ劇研で観たマレビトの会「島式振動器官」の松田正隆サンも、三浦サンと同じベクトルを志向しているのはまちがいない。予定調和という名の腐食性の粘液に沈んで、窒息しそうになっている「透明な天使たち」を救いたいという志は、同じくしていると思うの。でも、実際にできあがった舞台の出来は、かなり差がついてしまっている。それは、松田サンが自前の戯曲で勝負して、三浦サンは演劇界に燦然と輝くチェーホフの代表作のひとつを選んでいる時点で、フェアな比較とは言えないかもだけど、そんなことない。松田サンも戯曲内に流れるコンテクストを、切断、遮断、破砕を試みるのだけれど、それを、あくまでコンテクストの中でやっちゃう。セリフの特権性を擁護したまま、コンテクストを乱すために別のコンテクストを換置しようとするんだねー。それに比べると、三浦サンは真の意味で「聖域無き改革(笑)」路線でいく。腐蝕性の粘液の発生源ともなるある種の流れを乱すために、セリフからがんがん切り刻んでいく。どっちがラディカルな効果を発揮するかはいわずもがな。

まあ、野田秀樹みたいにじぶんで作・演出・出演と、全部やっちゃうオールマイティな舞台上の「神」になるヒトや、つかこうへい、鴻上尚史、平田オリザなど作・演出までやってしまう「教皇」になるヒトもいて、でも三浦サンは蜷川幸雄氏みたいく演出のみで戦うヒトは、現場の「部隊長」にならざるをえないのだから、かなりの<強度>というものを身につけないと、この世界でやってけない。という切実な事情もあるのだろう。そして見事にそのハードルをクリアしきっている・・・。どかも、そりゃあ「演劇好き」を自認する男の子なわけで、だからチェーホフくらいは知ってるし、「三人姉妹」や「櫻の園」のあらすじや登場人物は頭に入ってる。それらが、どれくらい傑作な戯曲なのか、シェークスピアと比べてもまったく見劣りしないクオリティがあることとかも知ってる。けれども、そんなどかにとっての「予定調和」も、ことごとく砕ききってくれた。感動、、、というよりも戦慄とともに。

アフタートークで、松田正隆氏と三浦サンが話してたけど、だいたいどかの想像通りのヒトだった。自分が見つけたこの特徴的な演出という「鉱脈」の、生成原因(演出の理由)についてはあまり明確に理論化できていないけれど、この「鉱脈」の、利用価値(演出の効果)についての確信はゆるぎないものであるみたい。ちょうど、平田オリザが90年ごろに同時多発会話という、当時の小劇場界を全て転覆させてしまった「鉱脈」を探し当てたとき、何故にそれが有効なのかは分からないけれど、如何にそれが有効かについては揺るぎない確信を抱いたように。

青年団の1軍役者サンたちも、三浦サンの高すぎるくらい高い演出要求によく応え、自分の身体を解放するのではなく、拘束していく方向によく「調教」できていた(もちろん、拘束は解放をふまえないと実現できない、体験としてちょっとセリフを読んだことがあれば、いかにあのセリフを言うことがむずかしいかが分かると思う、どかも・・・分かる)。

もしかしたら、2004年のどかレビューを代表する舞台はこれになるかもしれない。とにかく、身震いがとまらないほどに、戦慄した舞台だった。


(追記)

そう、言い忘れてた。セリフをどれだけ切り刻み、四肢をどれだけ拘束し、他者とのコミュニケーションを分断されたとしても、発話される音、それ自体の尊厳はついに奪われなかった。そして、何よりも、、、マーシャの頬を伝う涙だけは、遮断切断分断が吹き荒れる三浦サンの「暴力」も止められなかった。あの涙には、完全に白旗降参でした、むじゃうけ、んこう、ふーっ、、く。


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