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2004年05月08日(土) マレビトの会「島式振動器官」

どか、かなり久しぶりの観劇、マチネ@アトリエ劇研。この京都下鴨にある劇場は、観客席100弱の小さな劇場。今後の上演スケジュールを観てたら、青年団等が来るみたい、うん、いかにもそれ系な雰囲気の劇場。ちょっと交通が不便なのが残念。

何と言っても、松田正隆サンの作・演出というのが惹かれた理由。どかが以前に紀伊國屋ホールで観た「月の岬(レビュー未収録)」は、かなり面白かった。あの舞台は作・松田の演出・オリザで、普段の青年団の舞台とはまた違った艶っぽい「狂気」が徐々に舞台を占めていく展開の妙に戦慄したのだった。「雲母坂」は観られなかったけど。マレビトの会とは、松田サンが自身の作品を上演するために今回立ち上げたプロデュースグループ。アトリエ劇研をフランチャイズとするみたい。

で、どかが松田戯曲に抱いていたイメージとは「月の岬」のそれであり、つまり少しオリザ戯曲に似ているけれど、≪パッと見「平温」のような、緻密かつ透過度の高い再現性≫だった。でも今回の「島式振動器官」はのっけから違って、≪一見して「熱病」のような、緻密かつ飛躍のある乖離性≫を印象として受けたどか。つづめて言えば、明らかな「不条理劇」だった。

腑に落ちない論理、つじつまの合わない会話、風景のない窓、内容のない手紙、聞こえない耳、飛べない鳥。そんなモチーフが、意図的な違和感をふくみ込んだ役者のセリフから浮かび上がっては消えていく。どかは途中から笑い出したくなったんだけど、周りは誰も笑ってないから笑わない

キャラクターやストーリーの解体というベケット風な不条理、ラカンやバルトを匂わせるキーワードの羅列、全ての表象を「記号」として、その意味する内容を推理しなくちゃな気分にさせる展開。一瞬、どかもその「パズルゲーム」に参加しようかなと思ったけど、とちゅうで辞めた。21世紀のこの時代、そんな20年も前のムーブメントと同じことを作家が観客に要請しているとは思えなかったから。

そう、どかはでも、「月の岬」のような精緻な結晶を紡ぎ上げた松田サンが、こういうストーリーの解体のベクトルを目指したかった理由は、なんとなく分かる気がする。遊園地再生事業団の宮沢章夫サンが活動休止後の復帰作「TOKYO BODY」を作っていったときと、きっと同じ気持ちだったのだろう。それはどかなりに言葉にすれば「予定調和への憎悪」である。

分かりやすい「めでたしめでたしシャンシャンシャン」系の作品やドラマばかりになってしまった現状、それは鴻上尚史が先日言っていたように≪観客の側にこれっぽっちも想像力への根気が残っていない≫ということが原因である。ちょっとでも飛躍があったりズレがあったりしただけで「分からないもの」として自らのなかで決着を付けてしまい、そっぽを向く。こんな観客が増えてきてしまったから、作家の側でも、観客を甘やかさざるを得ない。自分の表現欲を制限してでも、ハードルを下げていかざるを得ない(ちなみに、この「めでたしめでたしシャンシャンシャン」系と、つかこうへいが語る「ハッピーエンド」とは似ても似つかない天と地の差があることは言うまでもない)。

「分からないことを分からないまま、宙づりに自分の中で蓄えていく」ような見方が大切なんじゃないかなとどかは思う。安易に「記号」に答えを照合していくのではなく、安易にカタログ化へと進むのではなく、不条理な宙づり感覚にちょっと耐えてみたりすること。これはこれで、かなり度量を要する大変な作業なんだけど、でも、どかはそう自分のチャンネルを変更したとき、かなりこの舞台が楽しめる気がした(だからそこかしこのプロットに笑いたくなったんだけどな)。

耳を切り落としてそれを牛乳瓶に入れて手紙にする、など、とっても奇妙でかつそれが美しく詩的なイメージを付与されて舞台に在ることにどかは素直に感動した。奇妙な「記号」だけなら、現代思想や哲学をかじれば誰だって生み出せる。それをきちんと舞台の上に載せて、かつ美しいということが、演劇が演劇である意味だ。最後のラストシーン、机の上に載せたたくさんの牛乳瓶がカチャカチャ振動でふれ合う音が余韻として残る暗転、どかは素直にカタルシスを感じた。例えば、ダリやマグリットの絵のなかを進む自分だ。たくさんの暗示にまかれつつも、その青空や星空の澄んだ色は色として心を打つ。宙づりだからこその、引き裂かれている感性だからこその、浸透圧がそこにはあるのだ。

そして、観客は劇場を出てからゆっくり時間をかけて、宙づりになった心を着地させていけばいいし、引き裂かれている感性をもういちど結び直せばいいんだよね。いそがなくても、それを意図さえしなくても、きっと、スッとなるんだから。

(と、どかは思っていたけれど、一緒に観たオッチー氏はかなり厳密な読み込みを試みていた。バルトについて、どかとは比べものにならないくらいちゃんと知識を持ってる彼には、かなりの部分が理解できたらしい。うん、それもまた正解なんだろうなと思ったり。鑑賞の多用さはそのまま、その作品の価値なのかも知れない)


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