un capodoglio d'avorio
でも、何が一番かと言って、昼間のなんやかやよりも、 夜、ダラダラ飲んでダベってたのが心地よかった。 完全にスイッチオフ状態で、グデーって溶け溶けな感じで。 くりはらサンが作ってくれた肴をつまみつつ、 ネオユニヴァース単勝馬券を紙吹雪にしたりしてると、 何というか、やっと身体が気持ちに追いついた気がした。 4月からこっち、とりあえず気持ちは先へ先へ、 前倒しで進めなくちゃだったから進んでいたけど、 どっかでこう、引き裂かれた感が拭えなくて、 でもそんな引き裂かれた感をとりあえず「カッコ」に入れておけるくらいには、 どかも大人になっちゃったから、日常は流れるのだけれど、 その引き裂かれた隙間に吹き込む風は、得も言えぬヒリヒリするような。
いろんなことを「カッコ」に入れてしまえる要領だの気合いだの、 それはそれで大切なことだしどかは半分無意識にそのような手練手管を、 修得してきたような気持ちもあるけれど、でもそれだけじゃ、ヤダ。 「カッコ」に入れっぱなしな人間が世の中、多すぎる。 「カッコ」に入れられなくてパンクする人間も、多すぎる。 最近のニュースなんてみんな、そうじゃないか。 前者はズル過ぎるし、後者はだらしなさ過ぎる。 自戒を込めて、そう思うな。
なーんて言うことを、ぼけらーっと考えていたような考えてないような。
でも、ネパールから来た女の子チャンは、衝撃的だった (なにが「でも」なんだ)。 宗教的舞踊にしろ世俗的舞踊にしろ (もちろん厳密的な意味で区別はできないけど)、 とーっても肉感的なんだなー。 やっぱりインドに近いからだろうか。 中国というフィルターを通していないのも大きいのだろう。 彼の地の信仰の感触の「柔らかさ」というものは、 からみつくようにトドメを差しにくるなーと思う (いやー、あの腰つき・・・でへ)。 世界観としてのカーストを実感できたのも、良かったしね。
▲みんなは練習中、それを眺めるくりぽん、とよぷく、どか
師匠夫妻ととよぷく氏、くりぽん氏以外にも、 どら、ハル、惣一郎、くま、ぶう等と会えたし、 現役の子たちとも話が出来たし、 良いタイミングで入ったくさびだったことは間違いない。
帰りはくりぽん氏とヒロエちゃんが同乗して、この日の朝10時過ぎに出る。 途中、名阪で若干渋滞に巻き込まれるも、ロスは1時間弱で済む。 ヒロエちゃん家に寄るために京都で降りて、 あまりにもベタすぎると思いつつ「天下一品」でラーメンを食し、 夕方6時頃、どかん家着、くりぽん氏はそこでツデーに乗り換えて、 岡山県久米郡目指してすぐ、発った。 彼の道中の無事を祈りつつ、どかはばたんきぅ。
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