un capodoglio d'avorio
2004年03月31日(水) |
野島伸司「プライド」最終話(まとめ3:予定調和と違和感) |
(続き)
野島ドラマおなじみの「方程式」、最終回の長いモノローグ。「人間失格」「未成年」「リップスティック」「SOS」などなど、その作品のテーマの核心に迫る印象的な語りを最後に挿入するというのが、野島サンの得意とする定型。どかは特に「SOS」の最終回、卒業式のシーンの「僕たちは、愛するために生まれました」から始まる哲也(窪塚洋介)の答辞が大好きだった。そして「プライド」では、そんなモノローグを突っ込んでくるかなーと思いながら見てたら、それっぽいタイミングでハルのモノローグが入る。帰国後のインタビューに答える言葉だ。でも・・・、期待は裏切られた。かなり、凡庸。けっきょく「ひとりよりもふたりのほうが強いですよね」的なありがちなまとめ方で、テーマの広がりも深まりもまったく表現していないから、引用する必要も感じない。
でも。。。ラストシーン手前。ハルには新しい恋人が出来たんだと思いこんで、ひとり、アイススケートをする亜紀の姿は、良かったと思う。ああ、ここでこのドラマが終わってくれたら良かったのに。しかしそのあと、どかが考え得る限り、最低の予定調和の展開に入っていく。マリアナに沈んでいくような絶望を感じながらラストシーンを見ていたら、一瞬、かすかな違和感がサブリミナル効果のように。ん?2度目、3度目は少し注意しながらセリフを聴いてみると・・・、うん、やっぱり、ここがおかしい!
ハル 「四季の歌」って知ってる? 亜紀 うん ハル アキを愛する人は、心深きヒト (野島伸司「プライド」最終話より)
花火をバックにしたキスシーンの大ラス手前。ハルが亜紀にもいちど告白するんだけれど、何回見ても、やっぱりこのハルの問いかけと答えは、前後のセリフの流れから完全に浮いてる、全然繋がらない。だって、この「質問」の前の会話は、ハルがいつも持ち歩いてた亜紀の写真について。で、この「質問」の後に続く会話は「オレに合う女は亜紀だけ」と来るから、やっぱり普通のストーリーのレベルではどうしたって不自然。野島サンは現在のドラマ業界のなかでいかにオリジナルな作風であるからと言っても、プロの脚本家である。推敲くらいはやっているよ。・・・ならば、この不自然さの理由は、ひとつだけ。野島サンはこの一瞬に、野島サンは全11話に及ぶこのドラマのテーマを、凝集したのだ。「心深きヒト」というのは当然どかがすでに述べたように、「氷の女神」との邂逅を暗示している。リンクの氷の底へのダイブ、そして自分の意識下レベルへの沈降を、暗示しているのだ。
これはあくまでどかの仮定だけど。でも、そう考えればどかの中で全てが繋がる。フジ月9キムタク主演という日本一厳しい「シバリ」のなかで、脚本家が自分の作家としてのテーマ性に筋を通すために、ほぼ完全に世間の予定調和に敗北しつつそれでも自分の「プライド」にかけて挟み込んだ不自然さ。この仮定は、それほど大きく外れてはいないと思う。
この不自然さを「必然」と捉えるならば、当然「四季の歌」の「ハルを愛する人は、心清きヒト」という歌詞についてはすでに第10話で触れられていたこととリンクさせて考えるのは自然な流れとなる。つまり、
【心清きヒト・古き良き時代の女 ≪ 心深きヒト・氷の女神】
という構図こそ、野島サンがこのぐちゃぐちゃぶーなラストシーン、ひいてはこのドラマ全体で提示したかったことなのだとどかは思う。
はっきり言って、ラストシーンはこのセリフ以外、すべて要らない。この構図をぼやけさせるだけだもん。別に花火を打ち上げて、それをバックにハルと亜紀をキスさせなくても、野島サンのテーマから言えば、ハルは既にハッピーエンドを迎えていたんだから。ハルは、亜紀と結ばれなくても、究極、幸せだったのだから。
さっき軽く触れたけど、どかが演出ならば、ラストはアイスホッケー場でひとりスケートをしながら軽く微笑む亜紀の姿で編集を終えるだろう。ここで切れば、その後の現世的な幸せを感じさせつつも、お互いが精神的な世界で既に満ち足りているというもっとも大切なことが明らかに提示できたのだから。そう。このリンクで、ひとり淡々とスケートをする亜紀の姿は、意識下レベルへの深化を感じさせるほどに凛々しさを見せていたよ。それだけで、もう、充分だったのに。ハルは、もういらなかった。ああでも、それは野島サンがいちばん分かっていたのだ。この不条理。このやるせなさ。不自然さという後ろ向きなコミュニケーションで切なくやりとりされる、一番大切なテーマ。
ドラマなんて観た人が楽しければそれでいいのよ。という意見が、某プライドサイトの掲示板でも多数。まあ、そういう書き込みを喚起してるのが、たぶん某主演役者サンのアンチクンたちの、感情的なだけの攻撃的否定書き込みだからなー。別に、どかはそういうの見て「ダメだよ」とは思わない。ヒトとして最低限の礼節をわきまえて、かつ表現者への最低限の敬意を持っていれば、何を書いても何を感じても別に構わない。
ただ、どかはドラマ「プライド」の受けとられ方には、何かうすら寒いものを感じた。高度消費社会のどう猛な消費性が、ついに野島伸司という脚本家を取り込んで葬り去ろうとしていると感じたのだ。某役者サンの熱烈な激賞と、他のほぼ無関心に等しい冷笑という二極化は、まさに消費社会の典型的な反応だ。
どかは・・・、どかは野島サンには「借り」がある。どかは、大好きな表現者はけっこうたくさんいるけれど、「借り」があると感じるヒトは3人だけ。甲本ヒロトと、つかこうへいと、野島伸司。この3人は、命に代えても絶対に支持したいと覚悟を決めているどかである。野島サンの厳しすぎるほど荒涼としていて、かつ新雪ほどにデリケートな理想主義的世界は、いまだフォロワーがまったく追いつけないほどにオリジナルでかつ孤高の位置にある。でもどかがその世界について、感情的にただただ崇め奉ってしまったら、それは某掲示板の二極化のひとつに飲み込まれてしまうだけ。だから、どかはありったけの危機感をかきあつめつつ、理性と感性のアンテナの感度を最大限まで引き上げてから「プライド」を毎回見続けた。どかのアンテナなんてホントは錆び付いてるんだけど、それでも磨かなくちゃと思った、それが危機感。
こんなにどかがくたびれてしまった理由とは「プライド」自身に、消費社会に迎合するような因子が色濃く組み込まれていたことであり、それでもどかがいまちょびっとだけ嬉しい理由とは「プライド」に、やっぱり野島サンの脚本家としての「現在形の」テーマが織り込まれていたことである。「清らかさ」よりも「深さ」をただ、求めるというベクトルには強烈なアクチュアリティがあると思うところ。
はあ、やれやれ、やっとこのレビュー、終わりだよ。つかれたー。
付記1:木村拓哉サン、最終的にどか、否定はしない。ちょっとあのセリフは、彼には不向きだったということなのだと思う。どかは・・・、実は告白すると、途中からハルを、いしだ壱成が演っていたらと想像して差し替えて見てました。壱成クンなら「メイビー」その他、あのセリフはちゃんと言えたと思う。どかのなかで木村サンは「あすなろ白書」がベストだった、たしかにあの時はすばらしかった。でも、あれから彼は、変わっていない。
付記2:竹内結子サン、ラスト3話はハルから主人公を完全に奪うくらいの熱演。振り返ってみれば、もともといかにも野島サンが好きそうな女優サンだからいままで野島ドラマに出たことなかったのが不思議なくらい。第10話のラストの亜紀の顔が忘れられない。名演だった。
付記3:佐藤浩市サマ、さすがだった。もう文字通り「役者が違う」。自分の「芸の浅さ」を、自分の「芸風」だと誤解しているヒトへの、強烈なカウンター。佐藤サマはどんな役をやっても「佐藤サマ」だけど、その説得力が違う。それはいつもちゃんと挑戦してるからだ。
付記4:でも、佐藤サマが演じた兵頭が、最後失明するのって、次期月9ドラマの「解夏」への布石?あまりにもあからさまじゃないかのか、それは?
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