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2004年03月30日(火) 野島伸司「プライド」最終話(まとめ2:氷の女神)

(続き)

「氷の女神」というのはドラマ終盤で提示される、「古き良き時代の女」と対照的な理想のイメージである。真のアイスマンのみが出会えるリンクの底に住むという「氷の女神」。半ば伝説のような扱われかたである。しかし、ハルはライバル・グリーンモンスターとのリーグ最終戦で、そのイメージと邂逅する。

脳しんとうを起こしてリンクにつっぷして倒れたハル。もうろうとする意識の中、白濁色のリンクがどんどん透過され、彼の視線は底の底へとどんどん沈降していき・・・出会った女神の素顔はなんと、亜紀であった。銘記すべきは、「氷の女神」を<縦>への深化に見いだしたということである。明らかなように、リンクの氷の底の底へと降りていくイメージはそのまま、自分の意識下の深層へと降りていくイメージである。「氷の女神」はだから、ハルが彼自身のなかに見いだしたイメージであっという言い方が出来るのだろう。「古き良き時代の女」は相手との信頼関係という<横>への連関、水平方向の運動に生まれるイメージであったのとは対照的である。「真実の愛」を<横>の連関ではなく<縦>の深化に見いだすということ・・・。

 亜紀 ハル・・・?ハルッ!
 ハル (ママ・・・)

 (野島伸司「プライド」最終話より)

フラフラしながら立ち上がったハルはスタンドに駆けつけた亜紀の姿を見、口を微かに動かした。セリフは音声に入っていないが、その唇の動きは「ママ」と呟いたように見える。この時のBGMは満を持して投入された「♪ボヘミアンラプソディ」だし「ママ」でなおさら間違いないと思われる。いままでのハルは、母性を求める故に「古き良き時代の女」を求め、そしてそれが適わないことを知り自らの殻に再び戻っていった。意識上では既に母性を欲してはいなかった。けれども最終戦のなかで彼は、意識下のレベルで母性と邂逅することに成功する。どれだけ求めても得られなかったものが、すでに自らの内にあったことを知るのである。このあとグリーンモンスターのディフェンス陣をことごとく抜き去っていくハルの姿は、意識上から生まれる動きの「クセ」が消えたことを意味しており、彼が意識下と強く繋がっている状況の、記号として理解できる。

しかし<横>の連関ではなく<縦>の深化に真実を見極めようとする姿勢は、ともすると「自己愛」に落ち着いてしまいそうにも思える。そしてどかは、ここがこのドラマのテーマの、かなり危うい点であり、かつ最もアクチュアリティが発揮される場所じゃないかと思う。たとえば、以下の大和とハルの会話。夏川との結婚が破談になった亜紀に対して、「待っていてくれ」と何で言わないのかと問いつめる大和・・・、

 ハル いや自由でいいんだって
    で、ひょっとしたらオレもさ、
    むこうで金髪の彼女ができるかもしんねえでしょ
 大和 亜紀さんにも?
 ハル ・・・それならそれでいいよ
 大和 それは強がりだよ
 ハル ううん、そうじゃない
    そうじゃない

 (野島伸司「プライド」最終話より)

自分がカナダでNHLのトライアウトに参加しているあいだ、日本で亜紀に「変なムシ(かつてのハル自身のように?)」がついたらどうするのかと問いつめる大和に対するハルの返答は、どう理解すればいいのだろう。もし未だハルが「古き良き時代の女」という理想を持っているのであれば大和の「亜紀サンにも?」という問いかけに対して「・・・いや、それはないよ」という返答になったハズである、絶対の信頼関係がそのセリフを用意したことだろう。しかし、ハルは「それならそれでいい」と答える。そして「強がりじゃない」と。ここが、この「プライド」というドラマのもっとも際どいポイントだ。

どかは結局、本当に「それならそれでいい」という意味でハルは言ったのだと理解する。なぜなら彼は、「古き良き時代の女」に惚れているのではなく、「氷の女神」に惚れているからだ。そしてそれは一見、いままでの「孤独主義者ハル」と何ら変わっていないかのようにも見えるし、実際大和はそう思ったからこそハルを責めた。しかし、第10話のハルの孤独と、最終話のハルの孤独は、別物である。克己を究極まで推し進めることで初めて到達できる意識下のミニマムな世界で(それはアイスマンにおいてはリンクの氷の底という場所になるのだろうけれど)、既にハルはひとりじゃないからだ。そう、例えば、アイスホッケーを続ける限り、リンクの上に立ち続ける限り、現実に優しい言葉や安らぐ温もりが得られなくても、彼はひとりじゃないのだ。このドラマのストーリーをちゃんと追っていくと、ハルはこういう境地にいると理解することしかできないのではないか、どかはそう思う。

「結局、自己愛じゃないか」という批判もあたるだろう。たしかに境界線はかなり曖昧であるとどかも思う。けれども「自己愛」ではない、現実世界に蔓延している数ある「愛」のうち、欺瞞や虚偽に冒されないものが一体あるのだろうか。現実の母親が子供に注ぐ愛情ですら、遺伝子の利己的な戦略であると野島サンは書いた(もちろん「高校教師'93」である)。ノスタルジックな感傷とともに過去を振り返ってみても、そこにはやはり欺瞞があった(「古き良き時代の女」)。また、現実の刹那主義的な恋愛の流れのなかにも、虚偽をはぎ取っていった後には何も残らなかった(「プライド」第4話)。荒唐無稽のご都合主義に思えた野島サンのストーリーは、実はこのように、様々な「愛」を否定し続ける道行でもあったんじゃないだろうか。そうして、ハルは「愛」に絶望した。亜紀に第10話で「あなたは誰も愛さないんじゃない!」と責められても、でもハルにはどうすることもできなかった。

どんどん欺瞞や虚偽を切り落としていくことで、最後に残った塁土としてのミニマムな場所とは「氷の女神」であった。それは他の「愛」を信じることのできるヒトや、「愛」に絶望しているだけのヒトには、単なる「自己愛」に如かないと断定されても仕方のない場所である。そして、現実断定されてももはや、それを見てしまったヒトにとってはどうでもいいことなのである。「それならそれでいいよ」とは、本当に「それでいい」のだ。ハルは母性を希求するけれど、それを亜紀に押しつけることはもはやしない。<信じる>ことは押しつけの緩やかな裏返しに他ならない。八方ふさがりの孤独主義者のように見えるけれど、それは水平方向の<横>の連関については八方ふさがりでも、厳しい克己の道を進むことで垂直方向の<縦>の深化を求めることが出来たとき、彼は既に孤独ではない。その克己を支えられるのが「プライド」なのだろう。

どかはこんないびつな結論にたどり着かざるを得ない野島サンの作家としての限界が、とても大好きだ。大好きなのだけれど、このドラマは、ここから捩れてしまう。いびつなりに真っ直ぐ芯の通った世界観が、ラストシーンでゆがめられてしまう。

(続く)


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