un capodoglio d'avorio
2004年03月24日(水) |
大島弓子「秋日子かく語りき」 |
今年の1月からNHKで放送されたドラマ「ちょっと待って、神様」の原作マンガ。初出は1987年「ASUKA」1月号。ディープな読み込みと鋭い分析で話題になった「BSマンガ夜話」。この100回を数えるこの番組のラインナップのなかでも、伝説となっている「第一期クール(96年8月放送)」で選ばれた8人のマンガ家。大島弓子はそのなかのひとりであり、そのときに取り上げられた作品がまさに「秋日子かく語りき」であった。とくに「ちょっと待って、神様」と比較するねらいで読んでみた。
じつは原作は短編。ドラマは第20話まで続くそれなりのボリュームをもったストーリーだったのだけれど、原作をつき合わせてみるとちゃんと照合できるのは第4話まで、つまりフランクリン(という名のベンジャミン)を秋日子が竜子の夫に返すというシーンまでである。つまりあとの16回のストーリーは、脚本担当の浅野妙子サンの創作となる。が、じつはそれほど話は単純ではない。ドラマが原作のストーリーの後日談をシンプルに追っていったのかと言えば、そうとは言えない。原作とドラマでは明らかに基本テーマと、世界設定と、そして主人公(!)が異なるからだ。
例えば女子高生・天城秋日子の設定だけれど、ドラマではいまひとつ生きることのリアリティを掴めない女の子としてあり、それには両親の不和などが背景にあることも示される。そして入れ替わりの相手であるおばさん・久留竜子の、目の前の生活へのバイタリティと家族への尽きない愛情が対比され、そのギャップにドラマツルギーが生まれるという構造だった。けれども原作の秋日子は、とくに鬱傾向も示さなければ、両親の存在さえ物語には出てこない。ふわふわしていてたしかに現実感は薄いことが暗示されるけれど、それは自分のことよりも周りのことを気にしすぎる少しズれた女の子としてである(ネガティブ感は無い)。そして竜子の性格設定はドラマに共通している。そして何より重要なのが、原作の構造は、この2人のギャップではなく、共通点にあるということだ。秋日子はもともと少しずれてる女の子であり、竜子が入れ替わってそれが助長されるけれど、周りはそれをすんなり受け入れようとするのである。
ではそんな原作の、どこにドラマツルギーがあるのか。ギャップをフッと世界に落とし込むというものがたりのひとつの型を、それでも大島弓子はここで導入する。それはひとりの観察者を設定すること。つまり、ドラマにも出てきた秋日子の友人・薬子である。薬子と秋日子とのあいだにあるギャップ、それは入れ替わりの前からすでに存在するギャップなんだけど、そう!この薬子こそ「秋日子かく語りき」の主人公である(それも道理で、このタイトルは明らかにニーチェの「ツァラツストラかく語りき」のパロディ、語られる言葉の記述者が要るのだ)。
じゃあその薬子をまんなかに置いたこの原作のテーマはそもそも何だったのか・・・?これがむずかしい。大島弓子「さすが」なのだ。ドラマよりもずーっと短いストーリーだけど、テーマはドラマよりもずーっと深淵だと思われる、どかには。
もちろん、薬子と秋日子とのあいだの友情の「カタチ」はひとつだと思う。
薬子 ええそうよ たしかにあんたはわたしの王女様よ わたしはそれを認めたくなかった 成績に比例して いつも上に立っていたかったのよ (大島弓子「秋日子かく語りき」より)
ちなみに薬子は、秋日子のなかに竜子が入ったことを最後まで信じない。入れ替わりを信じないでいても、薬子のなかでストーリーは全て繋がっていくのだ。それはつまり、秋日子とのあいだにある「友情」がひとつの綱であり、もうひとつは、将来への漠然とした「不安と希望」の共有である。竜子と入れ替わっていた間に神様のお使いから教えてもらった話として、秋日子は最後に死後の転生は本当にあることを皆に話す。それを聴いた薬子の、でもそんな先のことでなくとも私たちは自分の夢を叶えられると信じているという独白でこの短いマンガは終幕する。そのラストのコマに描かれているのは、真っ暗に塗りつぶされたベタに浮き上がる、蓮の葉とそれに乗るひとしずくの水の粒。
寒気がするほど、上手いと思う。なんというか、大人だなーと思う。構成や手法や演出、なんやかや全てが。
秋日子の生と死にまたがるスケールの大きな世界観と、薬子のささやかな現実的悩みと喜びの世界観の対比。それを蓮の水玉でまとめてしまうというのは、たしかに、ニーチェもびっくりな才覚だ。告白すると、どかは初めてこれを読んだとき、イマイチくんだなーと思ってしまった。イマイチ、というか、ヨクわかんないクンだなーと思ってしまって、どかの胸のなかのヨクわかんないクン箱に入れてしまいそうになってた。でも、ふと、寝る前に気になることが何回かあって読み返すたびに、グイグイ、惹きつけられる。初めて読んだときは少しあざといく突拍子にも思えたラストの「蓮」も、いまならすばらしいエンディングだと思える。ドラマと比べて全体的に軽快なテイストが物足りなく思えたりしたけれど、いまなら、その軽快さも「大人」のカッコ良さだなーと思える。死や虚無なんて、すぐそこにある、当たり前のものなのだ、大島サンにとっては。ことさら言い立てなくても、それは普通に世界観に織り込まれていくのだ。クールだなあ。
萩尾望都が「少女マンガ世界を超えた」と言われるのに対し、大島弓子は「少女マンガの到達点を示した」と評される。
どかもやっぱり、それは合ってるなーと思うのは、ふわふわした絵柄と細かいコマ割りはいわゆる「少女マンガ」ちっくな読み方の文法を要求してくる。だから、サンデーやスピリッツを読んでるヒトにはちょっと最初は入っていきづらい違和感を感じると思う。でも、そこに踏みとどまって、この世界へ入っていく文法をサラッとマスターしてしまえば、なぜこのヒトが「到達点」とまで言われるヒトなのか、すぐに分かる。あのふわふわした柔らかく可愛らしい絵柄の底に潜む、ビックリするほどクールで冷めた感性、その「ギャップ」こそが、いちばん面白いところなのかも知れない。そう言えば、サファイア嬢から借りた大島サンの代表作「綿の国星」もそうだったな。と思い出すどかだった。
ドラマはドラマで別物。原作は原作で別物。あらためて、ドラマ製作スタッフの勇気に敬意を表したい。あそこまで原作から離れて冒険しつつ、きちんとものがたりをリアリティあるカタチにまとめ上げられたことはすごいことだ。原作へのリスペクトという命綱が生きた。ということなんだろうなー。
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