un capodoglio d'avorio
2004年02月07日(土) |
ちょっと待って、神様(〜最終話) |
果たして、人間は成仏できるものなのだろうか。毎日悔いがないように生きよう。いつ死んでもいいように毎日一生懸命生きよう。そう思っていて、真っ直ぐそれを実行して。さて、いざ京本政樹風な神様が「お迎えに来ました」と側に立っていたら、自分は躊躇せず「はい」と言えるだろうか?
自分は大丈夫!って思っていても、きっと、難しいことだよ。悟りを開いているといないとに関わらず、きっと、大変だと思うの。
例えば「自分がいま消えてもこの世界は何ひとつ変わらない」とやさぐれること。
例えば「自分が死んでもきっとあのヒトの心の中に私はいる」と祈りすがること。
いまわの際でのこの2つの結論は、それぞれとても有効のように思えるけれど、でもそれぞれの結論に全身全霊を委ねていけるほどに、ヒトは強いのだろうか?ううん。違う。きっと、もっと、ヒトは弱い。弱い、というのとも、きっとまた違うのだろうけれど、言い方として「弱い」というのはきっと正しい。弱いから、ちっぽけな自分がそれでも愛おしいのだし、弱いから、愛しいヒトをひとり残してしまうなんて辛すぎる。
最終週、竜子の家族と<竜子@秋日子>の海辺での家族旅行のプロットが淡々と進む。自分の正体を夫に明かした竜子にとって今生の別れの一夜。自分が死んだ当初はあんなに冷淡に見えた家族のそれぞれの心に、かつてちゃんと自分がいたことをひとつ一つ知っていく竜子。そうして最後のいまわの際、タイムリミットが迫ったとき、愛しい夫から「行くな」と抱きしめられる。それでも夫の手をほどいて竜子は、波打ち際に歩いていく。
子どもたちからの敬愛の情に満たされたから?
これから先のある優しい秋日子に未来をあげたいから?
大切な夫からの誠実な愛に胸打たれたから?
きっと、違う。それもあるけど、かなり近いけどでも、違う。竜子が波打ち際、自らの意志で成仏しようと決心できたのは、最後についに自らの人生を全肯定できたからでありさらに、自分がこの世界を、そのままに祝福することを「承諾」したからだ。日の出の水平線に向かってカウントダウンをする竜子に扮する泉ピン子の、あの表情の深さとはそこに存していると思うの、どかは。朝日をバックに逆光に振り向いた秋日子に扮する宮崎あおいの、あの表情の凛々しさとは、そこに存しているとどかは思うの。
ヒトはひとりで完結してはゆかれないし、ふたりで輪を閉じていくのも大変だ。だってヒトは弱いし、愛もはかない。でも答えはきっと逆だったんだね。辛いから区切るのではなく、辛いからこそ逆に開いていかなくちゃなのだ。自分の輪郭を世界に向かって溶かしていかなくちゃなのだ。生の孤独を背負い込み、愛の脆弱を抱きしめて、顔を上げて視線を朝日に向けなくちゃなのだ。
「孤独」「家族」などがテーマとしてクローズアップされてきたけれど、きっと本当のテーマはもっともっと大きい。だって「生と死」の物語だから、やっぱり宗教的な重たいものがずーっと基底音として響き渡る。これをそのままドラマにしたら、きっと視聴者はついていけない。でもこのドラマの秀逸な点は<竜子@秋日子>を見守っていく<秋日子幽体ver.>の視点を設定したことだ。この突飛な設定は、でもすっごい上手いよね。だってつまり、知らず知らずに視聴者は<秋日子幽体ver.>が<竜子@秋日子>を見守る視点に自らのそれを重ねていけるのだもの。そして人生に虚無感を抱いていた秋日子がネガティヴスパイラルから抜け出すとき、視聴者もスゥッと身体と心が軽くなっていくのを感じられる。うんうん、素晴らしいなあ、これこそドラマだよね。
竜子 でも、それでも上手く言えないんだけど
ヒトって、人生って、いろんな可能性にあふれてるんだよね
このひと月で新しい目で人生見直したら
人生って素晴らしい
あたしが思ってたよりずっとずっと人生は素晴らしいって
…だからお父さん、私のために人生狭くしないで
(「ちょっと待って、神様」最終話より)
最後の抱擁をしている2人を、後ろから眺めている<秋日子幽体ver.>の、あの目。
それでも人生は素晴らしい。
それでも、人生は、素晴らしい。
自分のことを、誰も見守っていないけれど、いろんな事に負けまくって辛くて死にたくなっても神様ですら助けてはくれないけれど、でももっともっとカメラを引いて自分をフレームに収めてみたら、きっと、何かが、自分を見てくれてる。そう信じてみたいなと、ちょびっとだけ、思ったどかだった。
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