un capodoglio d'avorio
passatol'indicefuturo


2004年01月28日(水) Syrup16g "My Song"

昨年末にリリースされた5曲入りマキシ。レミオロメンの"朝顔"と並行して聴いていたのだけれど、あっちと違ってこっちはなかなか文章に出来なかった。ポップじゃないから?違う、そうじゃない。ポップな条件である、メロディは磨き抜かれて聴きやすい。でも他の部分があまりにもズタズタで・・・。

1.My Song
2.タクシードライバー・ブラインドネス
3.夢
4.イマジン
5.テイレベル

ズタズタすぎて、メロディのポップさなんて吹き飛んでしまう。

いままでのシロップ、例えばあの激烈な印象の"coup d'Etat"でさえも、今回の曲たちほどにはどかを打ちのめさなかった。周りに充満しているウソの価値を、切り刻んで破砕して分解して微分していくこと。そしてその攻撃する対象は結局自分に返ってくること。そこで「狂気」にすがらないこと。「狂気」に安易にすがっていこうとする自分の背中を冷静に見つめてしまうほどに、vo.五十嵐サンの目は冷徹だったということ。「狂ってしまいたい」と言うことすら、最も唾棄すべき敗北であるということ。「でも、じゃあどうすればいいのだろう」と、途方にくれる小さい背中、もしくは膝を抱える細い腕。それがシロップの音楽だった。

しかし、シロップは次のレベルに進んでしまった。この5曲では、途方に暮れることすら、辞めてしまった。希望とは言えないまでも僅かに残る躊躇、未練、追憶。膝を抱える少年は自らの中でそんなものさえも、攻撃していき、壊滅してしまった。後に残るのは、空っぽ。空白が、あるだけ。そして唯一の逃げ道だったはずの「狂気」すら、残されていない。

だから、こんなにも怖い。狂っている男のほうがまだマシだ。そこには僅かにも治癒という余地が残されているのだから。シロップは冷静に、冴えた瞳で、虚勢でもなく、自嘲でもなく、優しく微笑みながらこう告げるのだ。


  明日死んじまっても
  別に構わない
  本気でいらないんだ
  幸せはヤバいんだ
  (Syrup16g「♪夢」)


この瞳がせめて狂っていてくれれば、どれだけ救われたのだろう。

かつて野島伸司はこういうセリフを書いた。


  ときどき心ない人に出会うと、
  後ろから殴りたい衝動にかられますが
  僕たちは傷つけるために生まれたわけじゃありません
  ときどき心ない人に出会うと、
  不安定になり、息苦しくなりますが
  僕たちは傷つけられるために生まれたわけじゃありません
  (野島伸司「ストロベリーオンザショートケーキ」)


かつてつかこうへいはこういうセリフを書いた。


  人が愛を告げるのに、
  もっともみじめな勇気を必要とする時代です
  (つかこうへい「ストリッパー物語」)


リアリストであるこの3人の表現の出発点は同じなのに、かくも出てくる言葉は異なる。そしてどかは、この2人の作家と同じように、このひとりのボーカリストも依然好きなままなのだ。けして言葉が上っ滑りしないというこの3人の共通点は、きっと、あのミニマムな風景に触れてしまったという経験を共有しているからだろう。ただ、つかサンや野島サンはひととおりくぐり抜けた先人であり、五十嵐サンは現在も沈降しているということ。

どかは、がんばってついていきたい。

息を止めて。

目は開いて。


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