un capodoglio d'avorio
2004年01月16日(金) |
ちょっと待って、神様(〜第8話) |
けっこうつらい展開だったな、今週は。 見ていて、胸にグーッと差し込まれる、というか。 秋日子の中に入っている竜子の悲哀が、 胸に、迫る。
自分がこれまで、家族とシェアしていたと思っていたこと。 自分がこれまで、家族とシェアしていけると思っていたこと。
そんなことが、次から次へと否定されていき、挙げ句、
自分が死んでも、世界は変わらない、何も。
ということを、竜子が思い知らされるという展開。 そうなのだ。 このドラマ、というかストーリー、すごいね。 こんな根元的なテーマだったのだ。 良くある、あなたのこと大切に思っているよ、とか、 良くある、あなたのこと死んでも思っているよ、とか、 そんなありがちなペラペラの方便が滑り込む余地のない、 「死」にまつわる当たり前な事実から、物語は、始まったのだ。
第2週目の今週は今週で、 あとに残された家族が、様々な苦境に立たされているのを、 秋日子の目で知ってしまう竜子は、 なんとか助けてあげたいと奮闘する。 しかし、いくらがんばって奮闘しても、 うざがられたとしても、ありがたいと感謝されることは少なく、 何より「助けてあげられない」 (他の生存している他人のほうが、よっぽど的確に支えてしまったり)。
スーパーハイテンションでがんばる竜子も、 だんだん、うちひしがれてきて・・・。 秋日子の身体で健気にがんばる姿も、 少しずつ、ブルーに染まっていき。 けっきょく「死」というものが明らかにする、 人間の孤独とは、動かしがたく真実であるという壁。 何が孤独って、残されたヒトよりも何よりも、 死んでしまった当人の孤独ほど、 救いがたく切ないものはないのだということを、 視聴者は、知る。 竜子役の泉ピン子がへたり込んで声を殺して嗚咽するその涙に、 秋日子役の宮崎あおいその背中を眺める時の切ないその眼差しに、 視聴者は、見る。
NHKが上手いのは、こんなに真実すぎるテーマを、 重たく辛いテーマをドラマで表現するときに、 竜子が実体化した時の泉ピン子の女子高生の制服姿や、 宮崎あおいの明るくキラキラしている華で、 若干軽くかわすことが成功していることだ。 この「変化球」は、とても上手い、効果絶大だ。
けれども、視聴者は心の何処かで知っている。 「変化球」では最後まで、ほんとうの「大打者」をかわし続けることは、 不可能だと言うこと、重たい事実が最後はのしかかってくると言うこと。
そして。
そして、最後は、宮崎あおいと泉ピン子の華で、 カタルシスへと導いてくれることを祈る。 この祈りこそ、このドラマの視聴率そのものなんじゃないのだろうか。
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