un capodoglio d'avorio
2003年12月14日(日) |
つかこうへいダブルス2003「飛龍伝」<大阪厚生年金会館3> |
(続き)
○ 山崎一平…第四機動隊隊長・神林の夫・桂木の幼なじみ:筧利夫
山 崎 殴ってやるよ、オラオラオラッ・・・そうだよ、 オレは相手が誰だろうと給料分は弾圧する、給料分は殺す キサマは少しでもそのオレのつらさを解ろうとしたか! 解ってオレを裏切り続け、愛もなく勝利を産んだか! よし、こうしよう、お前が生きろ オレは11.26、ヘルメットつけていかないから お前がオレを殺してくれ (つかこうへい「飛龍伝」より)
1970年当時の「革命」において、機動隊の隊員と全共闘の学生はお互い対立する敵同士である。しかしこの敵対関係というのは、逆説的な補完関係ととることも可能である。つまり、一公務員でしかない機動隊員が給料分の仕事をするためには、弾圧する対象である暴徒・学生が必要でありかつ、街頭にデモに出る学生が理想のための闘争に殉じるためには、罵倒投石の対象である国家権力・機動隊が必要である。そしてこの補完関係に、山崎と神林の恋愛が投影されていくのである。先に引用した2人の会話とは、まさにこの投影されて「革命」=「愛」というフィールドが形成された瞬間である。山崎にとって警棒と催涙弾が神林へ自らの愛を伝える唯一の手段であり、神林にとってシュプレヒコールや投石が山崎へ自らの愛を伝える唯一の手段であった。それもこれも全て、自らの理想を優先するためではなく、相手の理想を優先するために、そしてそのために自ら属する立場に徹底的に殉じていこうという、ねじくれ曲がったような、しかしどこまでも真っ直ぐな恋心がここにある。つかこうへいを批評してきた幾多の評論家が使ったフレーズ「前向きのマゾヒズム」とはここに極まる。ここを理解しないと、なぜ山崎が、作戦を盗まれたことへの報復であれほど神林を痛めつけなければならなかったのか、そして同時に自らもボロボロになるほど痛まなくてはならなかったのかが理解できない。
つか一流の「ねじくれ方」への免疫が薄い観客ならば、なぜ日記を盗み読まれただけでここまで執拗かつ苛烈に、自ら愛する女をなぶりいたぶり痛めつける必要があるのか、理解に苦しむに違いない。しかしこのシーンでは、神林が「ワタシはあなただけを愛しているから」と言葉で伝えたとしても、山崎の心には届かないのだ。表面上は学生と機動隊としてお互いがお互い相手を攻撃しあい、そしてその内面でお互いがお互い自ら傷つくことでしか、相手への恋心を表現し得ない不器用な人間だからだ。逆に言うと、相手への気持ちが溢れすぎて「そうせざるを得ない」のだ。どかは最近やっと、分かった。アタマの理解じゃなくてココロで納得した。そういう馬鹿げた、馬鹿げているけれど切ない関係が、存在しうるということを。そしてどかも、その関係に入る可能性があるのだということも。
だから山崎にとって、神林が作戦を盗んだこととは、単なる裏切り行為に留まらず、この逆説的な純愛の関係全てを否定する大罪なのである。お互いが逆説的にねじくれ曲がっていれば恥の感情を抑えておけるところ、相手(神林)がこの「逆説的誠実さ」をすてて「真っ直ぐな裏切り」に走ったため、自分のねじくれ方がとたんに恥に思えてしまいコンプレックスへと変貌、山崎は狂気の暴走を始める。それは最初のねじくれ方の度合いが激しいほど、それがゼンマイのようにキックバックは大きくなる。神林と自らをボロボロに傷つけつつ、山崎はひたすらなじりなぶり罵倒を続ける。観客は自らのココロの中に渦巻く闇の深淵に、同じ刃が眠っていることを否定できないから、神林の痛みを思って涙を流しつつ、山崎の痛みを思って耐えなくてはならない。
山 崎 オレたちの警棒には鉛が入ってる お前らの角材見てみろ、ちょっと押しゃ折れちゃうんだよ が、オレがお前に一度でも、 こんなヤワなちょっと押しゃ折れるような角材ではなく、 針金でもまいてもっと丈夫な角材、使ってくれと言ったことがあるか!
(つかこうへい「飛龍伝」より)
・・・「飛龍伝」のハイライトであるこの山崎の部屋の場面ほど、見ていて苦しいシーンにどかはまだ出会ったことがない。お互い傷ついて傷つけあって、それでも止まることが出来ないほど愛は深く大きくて「恋愛」とはもともと、これほど熾烈なものであったのか。「恋愛」とはもともと、これほど苛酷なものであったのか。そう愕然とするばかりである。「恋愛」とはそもそも、お互いの本当の自分をシェアしていく幸福にいたる道筋のハズなのに。自由にいたる道筋のハズなのに。そう思って人は動揺してしまう。しかしこの世で最も恐ろしいのは自分の心の奥底に潜む釜の中、欲望渦巻く真実の自分である。誰もが寂しいことに疲れてしまい寄り添ってくれる相手を求める。そして本当の自分を知って欲しいと願う。けれども自分自身、本当の自分を知らない。それを知ることは、怖い。その怖さに耐えて、筧利夫演じる山崎はその釜の底に向かって「まっとうに」堕ちていく。そして神林をボロボロに傷つけ、返す刀で自らを切り刻んでいく。そこまで相手を責めると言うことは辛いことなのに。そこまで自らを痛めつけると言うことは辛いことなのに。それでも山崎は、恐怖に耐えて堕ち続けていく。
広末演じる神林はその持ち前である良い意味での「弱さ」を、精いっぱい発動して筧・山崎のラストスパートに食らいついていく。青山では振り切られがちだったこのシーンも、大阪ではちゃんと、食い下がった。正しくまっとうに、舞台上で泣いていた。筧の言葉をこぼさず全部、受け止めていた。正しく「弱い」ということとは、他人に向けたアンテナの感度が高いということだ。広末はまだ、その感度にブレがあるけれど、12日ソワレのこのシーンでは、奇跡的なチューニングが実現していた。上記のセリフは、神林と山崎が釜の底へ向かって血を流しながら落下し続け、ついにぶち当たった底でたどり着いた言葉である。このねじくれた「まっとうさ」が与えてくれる剛速球の痛みに、観客は打ちのめされる。この慈悲深い優しさに満ちた「残酷」に、そして観客のヒューズは飛んでしまう。この後、神林を「革命」へと導いたコンプレックスが彼女の口から提示され、その闇の「まっとうさ」に山崎は彼女を赦す。「革命」が「愛」の場であれば、正しく「革命」へ向かう動機とは、正しく「愛」を目指す意志であると信じられるからだ。
○ 伊豆沼露目男…横浜国大委員長・組織にあって随一の実力者:武田義晴
伊豆沼 委員長、この伊豆沼、恥をしのんでお願いする次第であります 何とぞ妻の供養に、袖のひとつでも通して下さいませ
神 林 伊豆沼さん、似合いますか・・・似合いますか
(つかこうへい「飛龍伝」より)
神林は煉獄の地獄を抜けた果てに山崎と邂逅する。しかし、山崎との「愛」を再びつかむということは「革命」の場への復帰を意味する。11.26最終決戦の朝、幹部・伊豆沼が山崎の部屋へ神林を迎えにくる。伊豆沼の妻はこの日の未明に他界、病床の妻が神林のためにと揃えたヘルメットとヤッケを差しだし伊豆沼は、「私事であります」と断りながらしかし、土下座をして神林に「何とぞ」と頼む。神林に想いを寄せていた伊豆沼の横で、妻はその夫の思い人のためにヤッケを縫い続けていた。ここにも苛烈なまでにねじれた愛情がある。90年の初演以来、ほぼ全てのセリフに改訂が入ってきた戯曲「飛龍伝」のなかで、ほぼ唯一、全く変わらなかったセリフがこの横浜国大委員長のセリフである。「革命」という季節に「愛」はどのような形を取りうるのか。逆説的な愛とはいかに熾烈で苛酷なものなのか。そしてそのシルエットがどれほど美しいものになっていくのか。
「飛龍伝」の核心に最も近いところにいるシーンであり、セリフである。武田サンは青山では少しもたつく場面もあり、このテーマを背負うセリフに負けていた節がある。が、大阪では、ほんっとにどかの目の前で「委員長、お迎えに上がりました!」をやってくれて、それがまた見違えるほどの加速度があった。またこの伊豆沼の極めて強いセリフを受けなければならない神林。彼女はだが山崎との邂逅を果たし、もはや迷いは無い。委員長として「革命」の流れを、そしてその後ろの「愛」の流れを引き受けていく覚悟が生まれる。こういうシーンで「革命」の理想ではなく、愛をむしろ意識させるのが5代目神林美智子・広末涼子の「弱さ」の効果。好みは別れるだろうが、どかは4代目・内田有紀の真空にひとつ輝くシリウスの光よりも、広末涼子の大気を通して瞬くベテルギウスの明かりのほうが好きだな。いずれにしても、屈指の名シーンである。
○ 神林美智子…全共闘委員長・桂木の恋人・山崎の妻:広末涼子
神 林 泊さん、貴方の変わらぬ忠誠、忘れることはありません
泊 神林、貴様!オレに・・・
神 林 貴方は早稲田四万を率いて、半蔵門から国会前に向かってください そこには機動隊精鋭十五万が待機しております
泊 貴様、ここまで尽くしたオレに死ねっちゅうんか!
神 林 早稲田四万、おとりとなって死んでください それしか全共闘軍の活路はありません
泊 (錯乱する)怖い、怖い、死にたくねえ、死にたくねえよ!
(つかこうへい「飛龍伝」より)
デジャビュを見るような思いである。ちょうど一時間前にはステージ上で、この2人が立場を入れ替えて同じ芝居をしていた。山崎の部屋への潜伏命令を拒み錯乱した神林を諫めたのが泊。が、ここにきて、ちょうど立場が逆転する。つかこうへいの戯曲は「飛龍伝」に限らず、細かいディテールや場面場面の繋がりなどは、かなり荒唐無稽であり論理的整合性が保たれていないことが多い。つか芝居になれてないと、そういった目先の不合理や矛盾にとらわれてしまって劇世界に入っていけないことも、ままある。しかし、つかはそのような細かい些細な筋を通すことよりも、もっと大きく深い流れを二時間のステージに通すことを狙う。例えば伏線の張り方もそうである。「飛龍」名物の雲海上のスケーティングシーン、神林の尻を触った山崎が自らの右手を掴んで「なぜおれは」というゼスチャーとは、11.26国会前にて神林を撲殺した瞬間の山崎の姿そのままである。あえて、演劇的なテンションの高まりを序盤中盤にあらかじめ絵として作り、その絵をクライマックスに再現する手法は、よほどそのシーンのテンションに自信が持てないとできない。少しでも弛緩すると、単なる平板な既視感で終わってしまうからだ。だが、劇作家つかこうへいは敢えてそのリスクをおかし、そして演出家つかこうへいは意地でもその構造を演劇的カタルシスへと繋げてしまう。泊と神林のこのシーンもそうである。
神林はもはや、以前の彼女ではなく、正真正銘の委員長として君臨する。彼女をつき動かすのは、理想を実現するための革命成就への意志であり、すなわちその果てにある山崎との愛の成就に他ならない。「理想」は美しい。「志」は高貴である。だが、血の通った生身の人間が、それらのものを携えるとき、必ずそこには生々しい感情があるはずである。人間がプログラミングされたロボットではなく、あくまで誇り高き人間であるならば、そこには強い感情があるはずである。「理想」や「志」が強ければ強いほど、そう、例えば坂本龍馬が夢見た自由元年という究極の「理想」ならば、それを裏打ちしているのは沖田総司への究極の感情「愛」であるはずだ。たとえば、安保反対の向こうに理想の日本を夢見た全共闘の面々が「革命」を志すならば、それを裏打ちしていたのは最も強く熱い感情である「愛」であったはずだ。ここにつかこうへいが演劇を通して繰り返し繰り返し表現している、ひとつの祈りがある。このただひとつの祈りを、つかこうへいはこの陰惨で殺伐とした時代のなかにあってなお、上を向いて立ちつくす力としているのだ。泊は同じ早稲田の部下の諫めにあって、「革命」の場に踏みとどまる。その踏みとどまる彼の力とは、亡き妹への思いであり、神林への切ない恋情であったのだろう。
泊 神林、お前にもらったハンカチ持っていってもいいか これで妹の涙をふいてやりてえんだ いつも泣いてた妹だからきっと成仏できる、喜んでくれると思うんだ ・・・早稲田、行くぞっ!!
(つかこうへい「飛龍伝」より)
泊たち早稲田の学生は、機動隊に向かって突進し。校歌「♪都の西北」が流れるなか、早稲田の学生達は、みな撃たれて倒れていく。ナレーション「全共闘、泊平助、死亡」と入った後、神林と山崎の最後のラブシーンとなる。息を飲むほど美しいキスのあと、ついに最期の別れ。神林はフッと微笑んで、山崎に向かって敬礼する。
流れてくるピアノのイントロは、ベット・ミドラーの名曲「♪ROSE」
・・・
・・・どかにはもう、これ以上、付け加えることは、ない。
|