un capodoglio d'avorio
(続き)
まず<ウィーブモード>について。 HRCのサイトでホンダ自身が注釈をつけているように、 これは二輪車に特有の<震動現象>のひとつで、 自転車ですら、起こりうる別段珍しくもない普通の現象である。 そして<ウィーブモード>に入ったとしても、普通は収束に向かうはずが、 大チャンの場合、それが発散に向かってしまいリカバー不能になってしまった。
・・・ふむ。 じゃあ、なんで大チャンの場合だけ、発散しちゃったのか? <最終報告>では、これについては明確な回答がしめされていない。 収束に向かう場合もあるし、発散に向かうときもある・・・、っておい。 ということは、何か? 全てのGPライダーがあのコーナーで、 あのスピードで、あの角度で、 あの致命的なコースアウトをしたかも知れないのか? 違うでしょう? 実際には、大チャンだけが、あのスピードで、あの角度になってしまった。 その理由を調査するのが<委員会>の使命じゃないか。
また<メカニカル的>な問題について。 rsj.jp の報告書をそのまま引用すると、
HRCにて事故車両の分解検証を行った後であったため、 本委員会ではナットの緩みや部品組み付け上の問題などの 事故車両に関する事故後の直接検証は行っていなく、 分解された車両部品の確認のみを行った。
(「2003年ロードレース世界選手権・第1戦日本グランプリにおける 加藤大治郎選手事故調査結果報告」より)
って、これはもう、当時の状況を確認してないということでしょ。 どうして、アクシデントが起こった際の<現状維持>が出来なかったのか。 どうして、HRCはさっさとマシンを自分でばらしてしまったのか。 どうして、どうしてそのことが、 永遠にグレーな印象をはらすことが出来ない原因になると分からなかったのか。 ・・・分かっていたのか? と思われても、仕方が無いでしょう、違うかなあ?
<コースの安全性>については論を待たない。 「誰にも言われなかったもん、仕方ないジャン」って、ガキか? 世界最大の二輪メーカーだろ? 大・ファクトリー・ホンダだろ?
さらにどかが気になったのは、
検証に関する基本方針を、 「責任追求型」ではなく「原因究明型」の結論を導くこととし・・・
(同上)
別に、犯人探しをして欲しかったわけじゃない。 起きてしまったことは起きてしまったこと。 別に、誰かに罰を科したからといって、時間が戻ることもない。 でもこの引用のように、敢えて最初に断っておいて、 それでこんな「ボク悪くないもん」な<報告書>出されても、 誰も、納得いくはずがない (実際2ちゃんねるのスレでも圧倒的多数が、良心・義憤に従って批判)。 「原因究明」すら、されてないんだから。 「責任追及」して欲しくないから「原因究明」しませんでした、なのか?
どかの、論調は偏向していることは自覚してる。 でもね。 どかは、本当のことが知りたいだけ。 真実が知りたいだけだったのだ。 真実は、往々にして、残酷で冷淡なものだけれど、 で、どかは例えそんな辛くて冷たい報告書が出ても、 それを頑張って受け入れようと思っていたよ、 大チャンの熱い走りに懸けて、そう思っていたよ。 でも、実際の<最終報告>は、全然、別の意味で残酷で冷淡だった。
どかは<大チャンのミス>なら<ミス>でいいと思っていた。 加藤大治郎だって、天才とは言え、人間だもん。 それが真実なら、それを受け止めなくちゃいけない。 でも<委員会>は「ホンダは悪くないよ」としか言わないまま、 ついに、解散してしまった。 じゃあ・・・、大チャンの死は、いったい、 どうやって未来に繋げていけばいいのか? 大チャンの恐怖は、いったい、どこに行ってしまうのか。 大チャンのファンや、何よりご遺族の方は、 どこに悲しみの落としどころを見つけていけばいいのか。
事故のあと、これまでに、ホンダの周りにはきな臭い噂が噴出している。 例えば2ちゃんねるの書き込みのほとんどがデマだとどかは思うけれど、 でも、清成選手のマシンテストの中断や、宇川選手の引退時の様子は、 うがった見方をされても仕方ない状況であると、思う。 客観的に観て、どかも、そう思う。 そしてホンダはそんな「いわれのない邪推」を打ち消す最後のチャンスを、 自らみすみす逃したのだ。
どかは、もう、ホンダは切る。 「世界のホンダ」と言いつつ、 結局極めて「日本的」なやり方で<責任>をはぐらかして、 ファンや大チャンの遺族、そして大チャン自身へ、 残酷な仕打ちでもって返礼するというホンダという企業を、 許すわけには、いかない。
「いかない」と言って、でもじゃあ大チャンはどうなるの? こんなにやりきれないことは、無い。
人間の「死」になんて、どんな意味も無い。 したり顔で死を美化して飾り立てる後付けの論理は、 死者への冒涜にすらあたるかもしれないのだから。 <報告書>では大チャンの天才をことさら賛美するくだりがあるが、 そんなことは、彼らの任ではないことは、誰の目にも明らかであろう。 彼らに期待されたのは、そんなハンパな「情」ではない。 大企業の金と恫喝にも屈しない、 ギリギリに研ぎ澄ました「知性」と「勇気」だったはずだ。
人間が「死」から辛うじて引き出すことができるものは、 未来への「教訓」のみである、それ以外にない。 でも、大チャンの「死」から引き出せた「教訓」は、 ほんのごく、わずかでしか無かった。 これじゃあ・・・。
犬死にじゃないか。
<サイト内リンク>
4/7 Rd.1 JAPAN/Suzuka(加藤大治郎選手について) 5/1 追悼・加藤大治郎 5/2 追悼・加藤大治郎(続き) 5/18 大チャンお別れ会@Honda青山ビル
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