un capodoglio d'avorio
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2003年11月27日(木) 国宝 大徳寺聚光院の襖絵 @東京国立博物館

「幕末」2連チャン+送別会3連チャンという、
ハードかつめちゃ幸せな上京日程を過ごし、最後の26日の水曜日、
朝から上野公園に、気になってた展示を見に行く。
東京国立博物館・平成館にて開催されていた企画展、
「国宝 大徳寺聚光院の襖絵」である。

このタイトルよりも、きっとこう言った方が「通り」がいいだろう。
つまり「狩野永徳の襖絵が見られるよ展」って。
そう、何と言っても、永徳、永徳!
これにつきるんだろうなー。
日本美術史における「ルネサンス」とも言うべき、
桃山様式を代表する画家、等伯と並び称される天才。
むしろ、日本絵画史を通観したとしても、
永徳に並ぶのは、等伯、宗達、光琳くらいしかいないだろう
(どか的には、あと若冲かしらん)。

どかは前に観た永徳は何だったかなー、あ、あれだ。
四年くらい前に観た代表作<唐獅子図屏風>だ。
確か、皇室の名宝展@東博だよね(レビュー未収録)。
実は、あの展示に若冲の代表作<動植綵絵>も出てたんだよなー。
不覚にも、そのときどかはあれをほとんど素通りしてた気がする。
まだ若冲の存在をどかは知らなかったし、
まだどかの目もかなり未熟だったし。
ああああ、後悔。

ともかく、永徳の襖絵である。
聚光院の方丈の建築をそのまま立体的に起こしたように襖を設置。
つまり、壁に平面に襖を立てかけるのではなく、
疑似「部屋」空間を組み立てるということである。
かなり意欲的かつ斬新な展示プランに、
学芸員のたまごなどか、ドキドキ。
でも・・・、ちょっと眺めて、これが失敗してることに気づく。

だって、半強制動線(鑑賞者の流れ)が敷かれちゃってるんだもん。
部屋を擬似的にでも再現することはいい狙いだと思うけど、
そこまでするなら、もう少し頑張って、
動線を完全に自由にできるような工夫が欲しい。
だって、あの襖絵は畳の真ん中に腰をおろして、
ぼんやり周りを眺めたときに初めて、
景色と画面がリンクして無限の広がりが生まれるんでしょ。
だったら、あの襖絵にそって舐めるようにクネクネ続く動線は、
この「本来の」鑑賞法から、数億光年も離れた在り方だよねん
(実はこのことは、玉川の博物館学の展示評価レポートでも書いた私)?

でも、ほんと、そう思うのね。
仕方ないから、どかは動線から離れて、群衆を挟んで、
せめて遠くからでも、望ましい角度で眺める。
・・・うん、やっぱ、そうじゃん。
そうだよ、襖に正対して観賞するよりも、
すこし、角度をずらして、隅の角のあたりをぼやーっと眺めると、
抜群に楽しいんだよ、この襖。
永徳と松栄の親子は、そのくらいのことは計算して描いてる。
すごいなー、襖の向こうに実際の景色が広がるように、
微妙な経験則的な遠近法が、ここにはあるんだよお。

あと、印象としては永徳ね。
やっぱ、普通に感心。
どかは等伯よりも、もしかしたら好きかも。
こんなに水墨画をポップに描いてしまう感性とは、
いったい何だったのだろう。
感性じゃないのか、技術なのか。
技術が、あまりにもずば抜けてしまって、
永徳の頭や心すら、その手業に追いつけなかったのか。
等伯が<松林図屏風>で「空間」を描いたとするならば、
永徳は<花鳥図>で「存在」を描いたのだと思う。
2人とも、すでに「関係」の呪縛から解き放たれていて、
社会のレベルから、世界のレベルにいるから、
だからこんなにも、ストンっとまっすぐ、胸に落ちてくる。
そのストンっのストレスの無さが、心地よい。

まー、展示全体としてはかなりいろいろ思うのだけれど、
それでも典型的な一本立ての展示として、
これはこれで成立していると思う。
ってかそりゃあ、成立するさ、永徳持ってくればさー。


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