un capodoglio d'avorio
2003年10月04日(土) |
青年団「南島俘虜記」 |
(10/2、20時〜観劇@こまばアゴラ劇場)
この劇団の代表作「東京ノート」で舞台となったのは未来の日本、 ヨーロッパでは何度目かの世界大戦が勃発し、 彼地の美術館からフェルメールなどの作品が戦禍を逃れて日本に疎開してくる。 そんな設定のもとに共鳴しあう可笑しさと切なさを描いて傑作な舞台だった。
主宰平田オリザ久々の新作であるこの「南島俘虜記」は、 あの名作の続編なのだろうか? 日本の未来の縮図のような美しい90分の舞台では、 とうとう、戦場は日本本土となっていて空襲を受け続けているという設定。 南国の捕虜収容所では、絶滅危惧種たるわずかに残った日本人が、 「魔の退屈(by坂口安吾)」にさらされてぼんやり日がな一日過ごしていた。
・・・というプロット、んー意欲的だわ、オリザさん。 だって舞台セットから、まるで南国の野外収容所をそのまま移したかのような、 リアルなジャングル的ディテール、蔦がからまりハンモックがあって、 地面にはそのまま土が敷き詰められ、古びたベッドの軋みは、 21世紀から2?世紀へと観客を飛ばすイリュージョンへの入り口みたい。
平田オリザの粘着質すら感じさせる細部への想像力という才能は、 あらゆる劇作家のなかでも最も恵まれたものであり、 だからこそこのヒトなら未来の世界を背景にした演劇が可能かも知れない。 どかはそう思う、実際「東京ノート」は傑作の誉れ高くどかも圧倒されたもん。
「人間の滑稽や悲哀はいつの時代でも存在する」
そんな平田戯曲のコアをくるんでいく、 まるでオブラートのようなディテールのきめ細やかさは健在である。 健在・・・なんだけど。 んー、ちょっと、主宰が事前に狙ったところと、 実際の舞台の着地点がずれてる気が、したのね、どかは。 どかがずーっと青年団をフォローし続けてるフリークだから、 気になっちゃうのかもしれないけれど、 ほんのわずかな、些細な誤差なのだけど、 でも、違和感が。
例えば、確かに、平田がのたまっているように、 いまの日本には(違う、正確にはいまの日本人には)希望も目標も無く、 「魔の退屈」が蔓延しているという指摘も、全く正しいと思う、ズバリだ。 そしてその「退屈」にひたっている姿を、劇中、 ハンググライダーの技術の説明や上昇気流の実際の描写や、 アホウドリが羽ばたかずにただ滑降していくという事実に暗喩させたクダリは、 相変わらずの筆の冴えですねえ、オリザ様。 と思ったものだったのだけれどね。 「空を飛びたいなー」って女性捕虜が手を伸ばして滑空のまねごとをする姿は、 確かに、確かに、滑稽でかつ、憤慨を感じつつなお、泣けてくる (つまり「青年団」そのものだ)。
例えば、収容所内でのセックスの描写も、青年団にしてはあからさまながら、 それでもやっぱり青年団らしく洗練されていて、 戯曲のドラマツルギーを上手くサポートしているなあと思う。 「魔の退屈」が蝕んでいくのは魂の煌めきであり、 尋常なセンスを維持しているかに見えていたキャラクター達の間に、 白く澱んでうごめく、平凡で特別な狂気が浮かび上がってくる後半は、 相変わらずの筆の冴えですねえ、オリザ様。 と思ったものだったのだけれどね。 「産めよ」「バカじゃないの」という、 日常なら一番テンションがあがるはずの会話ですら、 すうーっと弛緩の闇へと滑降していくのみである、可笑しくて切ない。
でも・・・あの青年団独特の、無限の余韻を湛える深い深い「悲しさ」が、 いつものあの「悲しさ」が、今回足りない気がしたのだ、どかは。 このプロットの「背景」的に一番近しいのは「東京ノート」だろうけれど、 このプロットの「構造」的に一番近しいのは「冒険王」だと、思う。 その「冒険王」は1980年のイスタンブールの安宿に集まった、 日本人バックパッカー達の「魔の退屈」を描いていた。 そして、そこでもやはり弛緩しきった希望も目標もない、 鴻上風に言えば「沈没」した青年達がただ、会話していただけだった。 けれども、あの舞台は、何か、言いしれぬ悲しさがちゃんと、あった。 あの舞台で最後、夕焼けを待ちながらお菓子をつまむ彼らの姿からは、 声にならない嗚咽が、涙にならない悲哀が、確かに浮き彫りになった。 そんな嗚咽や悲哀が、今回の捕虜達には少し稀薄に感じられたのだ。
「涙にならない悲哀」が無限に立ち上がるかもな気配。 それが無かったわけではない。
名優・志賀廣太郎サン演ずる捕虜が、 焦土と化した本土へ残してきた自分の子どものことを思って涙にむせぶシーン (実際は泣き顔は見せず、背中でそれを語るのだけれど)。 またそれに触発されて、故郷の歌をみんなで茫然と口ずさむシーン、 ひらたよーこサン演ずる女性兵士がベッドに寝転がりながら歌っていると、 やはり、何か特別なレイヤーがストンと落ちてくるような感触がある。 それに、滑空するために水平に伸ばされた兵士の両腕や、 妊娠した女性兵士をもう1人の女性兵士が気遣って、でも言葉が出ずに、 沈黙するシーンなんかが合わさってくると、鮮やかに悲哀が浮き彫りに。 でも・・・、鮮やかなんだけど、余韻が残らないんだなあ、なぜだか。 やはり郷愁や子どもへの思いというトリガーでは平凡に過ぎたのか。 だからこそ、劇団でトップクラスの説得力を持つ役者、 志賀サンにこのトリガーを託したのだろうか。 でも志賀サンひとりで、この詩情の全ての凝集を委ねるのは、ちょっとコクかも。
名匠平田をして、なお、このプロットの背景への飛躍はキツかった。 そういうことなのだろうか、やはり。 さすがにねー、天皇がもう、アフリカに亡命して、日本国の再興は絶望的、 日本民族は南国でゲリラ戦で抗戦してるけど、もう絶滅危惧種。 という、圧倒的な距離感の設定だもんなあ。 それでも、どかが青年団をこの舞台で初めて見ていたら、 そんな青年団一流の「無限の余韻」なんて存在を知らないでいたら、 この舞台を絶賛していたという確信はある。 客席で100%、どかはこの過激な設定にインボルブされていたからねー。 それに今回の役者陣はどかがこれまで見てきた青年団のなかでも、 1、2を争うくらいトップクラスの充実度。 山内サンに志賀サン、ひらたサン、松井サンに辻サンが揃うなんて、 豪華絢爛、贅沢極まりないもん、マジで。 青年団でこれ以上のキャスティングは望めないでしょ。
そして、それでもなお、どかはこの舞台は、 青年団としてはイマイチクンかも知れないと思うのね。 日本の現状の情けなさ、日本の未来の真っ暗感を、 見事に描き出していたけれど、どかは青年団にはそれ以上を望む。 確実に滅び行く日本人の流れの真ん中にいま、浮かびながら、 どかは青年団のイリュージョンの力を信じていたいもん。
イリュージョンでも、いいから。
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