un capodoglio d'avorio
2003年10月01日(水) |
レンブラントとレンブラント派:聖書、神話、物語 @国立西洋美術館 |
昼過ぎに上野公園に着く、きょうは最低2つ、 調子良ければ3つハシゴするつもり。 良い天気だし、金木犀は良い香りだし、おし、がんばるぞっ。 まず、西美のレンブラントを目指す。
テーマは「物語画家としてのレンブラントとレンブラント派」。 当時のオランダがフェルメールやデ・ホーホなどによる、 室内画や風景画が興隆していく状況のなか、 あくまで物語画に「こだわった」レンブラントの側面を照射する展示。 昨年度最大級の美術展「大レンブラント展」と比べると、 やはり全体的に小振りなのは否めないだろう。 レンブラント真筆の大作はひとつ(数えようによってはふたつ)しかない。
どかがひととおり展示を見て、強烈に不思議に思ったことがある。 それは今回の企画展のポスターの図像について。 なんで<悲嘆にくれる預言者エレミヤ>を使ったのだろう。 というのは、どかは展示場で初めて知ったのだけれど、 レンブラントの正真正銘代表作である<聖ペテロの否認>が来ていたから。 びっくりした、まさかきょう、これが観られるとは露と思わない。 <聖ペテロ>はレンブラントの代名詞である「光と影と精神性」が、 全てギゥーっと凝集されてバランス良く結晶した、 画家のどの画集にも大概掲載される傑作である。 それをさしおいて<エレミヤ>をキュレイターはポスターに選んだ。 もちろん<エレミヤ>もとても美しく詩情あふれる作品だけれど・・・。
政治的な事情が裏にあるのかしらん・・・。 とまず思った、借り出した先方の美術館との兼ね合いかしらねって。 でも、んー、いや、単純に著作権料の問題かなーとも思った。 <聖ペテロ>を大型のポスターとして数千部刷ったら、 そりゃあ<エレミヤ>を使うよりも莫大な費用を要するだろう。 でも・・・、仮にも国立の西美に限って、そんなことあるだろうか、 地方の公立美術館や私立美術館なら経営も大変だろうけれど?
で、どかが帰り道でポヤーっと考えたのが、 やっぱり「宗教性」じゃないかなと。 日本人は、明確な父性宗教であるキリスト教の図像よりは、 もっと穏やかでポヤーっとした無為自然っぽい図像をこそ、 より好むからじゃないだろうか、って。 それで振り返って観てみると、確かに<エレミヤ>は一見、 これが旧約聖書の預言者であると理解するよりも先に、 頬杖をついてたそがれる老人の「切なさ」に鑑賞者は思いを馳せるだろう。 一方、空前の傑作<聖ペテロ>はその人物群の構成からして、 一目見てこれが何かしらの宗教的エピソードを下敷きにしている。 そういう直感が先に働いてしまうだろう。 そして、この直感が働いてしまったが最後、 そのエピソードがどんな内容なのかを知らない「自分」が気になってしまい、 作品を「味わう」ことが出来ないと言う自縄自縛にとらわれてしまうのだろう。 多分、とくに日本人は、そうなのだろう。
だから、ポスターには「学ぶ」よりも先に「感じる」ことのできる、 少なくとも現在の日本ではそう感受されるであろう<エレミヤ>を持ってきた。 「感じる」よりも「学ぶ」ことを要請してしまう<聖ペテロ>ではなく。
なんだか、そこまで考えて、 どかはちょびっと、中央線のなかで、へこんだりした。 「学ぶ」ことと「感じる」ことはあくまで並行して存在し、 響き合い感応し合って先に進むモノなのにな。 美術館がそれを高らかに宣言しないで、一体だれが宣言するのだろう。
なんて、ね。
もちろん、美術館も独立採算性をとんなくちゃだしね。 動員、大切よね、うん、たいせつたいせつ・・・
↑緑に囲まれて<考える人>byロダン・・・
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