un capodoglio d'avorio
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2003年08月24日(日) 三鷹阿波踊り 2

阿波踊り愛好者はとっても多いし、
やっぱり「民俗芸能」の中では一番メジャーだと思うし、
どかが阿波踊りをあんまし好きくないのはそういう、
メジャーどころへの抵抗感というあまのじゃく的理由が、
無いわけじゃないとは思うけど。

でも、まず、踊りの構造的に、
どかは観てて、あんまし面白いと思わない。
どかがやったりみたりしてきた芸能と比べて、
身体の使い方がそれほど興味深いとは思わない。
あれだけ楽器を並べれば、
そりゃあ、誰でもある程度「勢い」は出せる。
でも「音」を抜いて「動き」を観てたら、
けっこう普通やん、これ(暴言多謝)。



↑・・・これはなかなかキレイ、駅前の空中広場から


確かに「音」こみで観てみると、
高揚感はすごいし、巻き込み力もすごいし、
どかのやってる神楽やさんさとは別ジャンルの発散感がある。
でも、そういうベクトルで言えば、
サンバの足下にも及ばないと思うし、
日本(沖縄だけど)の芸能で言えば、エイサーのそれにも、
全く及ばないと思う。
どかは、エイサーのが好きだな、「音」もすごいし、
なにより「動き」がスゴい、あの身体の使い方は興味深い。

でも、エイサーやさんさも全国的な広がりを持ちつつも、
阿波踊りほどの普及には至っていない。
どかはこの事実こそが、全ての説明になっているのだと思う。
民俗芸能の魅力は、土の魅力だ。
あらゆる意味で。
あらゆる次元で。
「土」から離れたところで、その芸能にとりくむことは、
とても困難な壁に直面することになる。
精神的にも、身体的にも。
きょう、三鷹の本通りを練り歩いた、
有象無象の連(阿波踊りのグループ)の方々が、
そういう壁に直面して乗り越えたとは、どかは思えない
(傲慢だけれど、どか自身がその壁に苦しんできた自覚があるから、
ちょっと、ナンだけど、言わせてもらうこの際)。
いや、かといって、その連の方々が、努力が足りないとは言わない。

だって、きっと、阿波踊りには、もう「壁」が無かったのだから。

でも「壁」が無いから、あんまし面白くない。
きっと、どかの心が躍らない理由はここだ。



↑スポットライトに浮かび上がる勇者サンたち


でも、地元徳島のヒトタチが、民俗芸能ではなく、
エンターテイメントとしての普及に的を絞っていたとしたら、
どかは賞賛の拍手を惜しまない。
あまりに鮮やかに、その戦略は最良の形で結実していると思う。
踊ってるヒトは楽しそうに見えるし、
商店街は活気づいて喜んでるように見えるし、
三鷹市長はハナタカダカで嬉しそうだしさ。
どかが自分の部屋の静穏性を阻害されて八つ当たりしてるのもあるしね。
でも、こんなカタチで民俗芸能のエンターテイメント化が進んでしまったら、
なおさら、本当の「土」の匂いはかき消されてしまうなあ。
あらゆる意味で。

と、言いつつも、写真撮ってて、なかなか楽しかった。
自分の時間とココロとカラダを使って挑戦してみたい。
とは微塵も思わないけれど。
観てる分には、ま、いっか、と思った。


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