un capodoglio d'avorio
2003年08月03日(日) |
岡崎京子「うたかたの日々」追記 |
(続き)
どうしてだろう? 前はこんなことはなかったのに (岡崎京子「うたかたの日々」)
もすこしだけ、書き足りないこと。 愛が投降しなかったこと、降服を許されなかったこと。 それが痛いというのは、何故だろう。
それは「彼と彼女が愛さえ手放せば幸せになれたから」だとどかは思う。 そうすれば、空気はまた腐蝕性から創造性へと転換し、 廊下は広がり、天井も高くなり、窓からは光が差して来たかも知れない。 コランとクロエは全てを失ってなお、愛に拠り所をもとめた。 しかし、愛は、徹底的に、無力だった。
コランとクロエのメインのプロットと並行して、 コランの友人のシックとアリーズのプロットが展開される。 シックは、おそらくサルトルがモデルであろう架空の哲学者・パルトルの 熱狂的ファンでありそのゆかりのアイテムのコレクターだった。 超・熱狂的なコレクター。 アリーズとパルトル繋がりで巡り会いつき合うようになるが、 しかし、そのコレクターぶりに拍車がかかり、全てを犠牲にして、 アリーズにすら見向きもしなくなって、パルトルアイテムを蒐集しまくり、 そして、必然として、あまりに必然的に死を迎える。 アリーズはそのシックを救うために殺人を犯し、また死んでしまう。
思想家・ドゥールズ=ガタリはかつて、 この救いのない現代というシステムにおける唯一の希望は<狂気>と言った。 けれども、狂気、熱狂的になにかに打ち込んでいっても、 恋愛やコレクションに全てを捨ててまで没頭したとしても、 空気は腐蝕性へと変化する。
スピッツ・草野正宗はかつて、 「誰も触れない2人だけの国」と高らかに理想を宣言した。 けれども、どれだけ追いつめられても「2人の国」を死守しよう頑張っても、 自分の主観の強い押し出しをどこまでも続けようと試みたとしても、 空気は腐蝕性へと変化する。
小学校の担任のN先生はかつて、 「一生懸命頑張れば、夢はきっとかないます」と10歳の少年少女へ諭し聞かせた。 けれども・・・ けれども。 空気は、変わってしまうことが、この世の中にはあるのだ。
しかも困ったことに、それが「普通」なのだ、この世の中では。
はあ・・・、すごいっしょ? 現実を「ありのまま」描いてすごい、すごいマンガなのだ。 そして徹頭徹尾、救いのないマンガでもある。 そう、ある意味、あの陰惨極まりない読後感な「アトムの最後」に匹敵するな。
でも、あの「アトムの最後」にもかすかな希望の光がまたたいていたように、 この「うたかたの日々」にも、それは、やはり、あるのだ。 それは、絵、絵にヒントがあるのだ。
岡崎京子の全キャリアの中で、もっとも緻密に丁寧に描かれた絵。 かつてオカキョンの絵をヘタクソ呼ばわりした、 「C級マンガ読み」石原慎太郎でもこの作品を読んだら、 「暗い、つまらん」とは言えても「絵がヘタクソ」とは言えない。 そして構成とコマ割りがめちゃくちゃ前衛的にもかかわらず、 それが破綻しておらず、むしろ効果的にリズムを刻んでいくのが気持ちいい。 「ヘルタースケルター」での一気呵成の筆致、 「ナンバーガール張り」のスピードを感じさせる絵とくらべると、 「うたかたの日々」では軽やかにして繊細な筆致で、 「ジェリー・リー・ファントムちっく」なリズムを感じさせる。
そう、重くない。
ヴィアンの原作には、 「現代における最も悲痛な恋愛小説」というコピーが定着していたらしい。 その「最も悲痛な」エッセンスをそのまま、 90年代の日本のサブカル界のフォーマットに載せようとした岡崎京子。 どかには、その岡崎京子の存在自体が、唯一の救いに思える。
これだけ、陰惨なストーリーを、彼女の熟練の技でもって、 誰よりも、一番、一等、美しく飾っていくこと。 一度読み始めると、途中で投げ出すことを諦めさせるくらいの、 魅力ある筆致、構成、コマ割り、キャラクター。 けれどもそれは逃避ではなく、 原作のエッセンスと分かちがたく結びついていること。 岡崎京子という一人の作家が、この絶望から顔を背けず、 直視し続けたまなざしがついに、 絶望の向こうへ美しさを運び出すことができたという事実そのものが、 いま、21世紀の読者に与えられた、唯一の希望なのだと思う。
そして、岡崎サンは、今も、生きてる。 生きているのだから、この哀しみで身体を射抜かれてなお、 彼女は生きているのだから、私たちはこの上、何を望むのだろう。 岡崎サンは瀕死の淵から、ついに生還したのだ。 腐蝕性の空気にまかれている人間には「腐蝕性の空気」は書けないということ。 このうえ、なにのぞむ?
・・・
岡崎京子入門としては、絶対進めないけれど、 (入門にはやっぱり「リバーズエッジ」や「PINK」がいいと思うけど)、 でも、ある種のヒトに、是非、読んでもらいたいなと思う。
ある種の、というのは、つまり、 あの誰もが小学校の頃、先生に聞かされたであろう「あの言葉」を思い出して、 「なんや、ぜんぶあんなんウソやんか・・・」と、 心の底から途方に暮れたことのあるヒト、 そういうヒトにこそ是非読んでもらいたいと、どかは思うわけです。
なぜなら、そういうヒトにこそ、一番痛い話だから。
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