un capodoglio d'avorio
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2003年06月14日(土) 岡崎京子について

1996年5月に新聞で彼女の事故を知ったときの、
あの鈍器のような衝撃はいまだに生々しい。
最初にどかの口をついて出てきた言葉は、

「そんなん、、反則やんか、、、」

だった、何が反則かというと、
彼女の作品世界を、そのまま作者が生きてしまったら、
まんま伝説に、いや、伝説を越えて神話になっちゃうじゃん。
と思ったのね、どかは。
そんなん、ひっくりかえった安い予定調和じゃないか。
そんなん、許さへんよ、ぜったい。

彼女の作品はそれほどに、強く、すさまじく、ドライで、
陰惨で、でも軽くて、救いを敢えて提示しないところが救いで、
リズムがあって、そんなのをひっくるめて魅力に溢れていた。
最近オカザキを知ったヒトに向かって、これだけは言いたい。
岡崎京子は、あの不幸な事故に遭う前から既に明らかに天才で、
心あるヒトは彼女を褒め称えていたことを。
安易な神格化は、したくないし、許せない。
事故になんか、遭わなかったら遭わないほうがいいに決まってる。
それを「夭折の天才漫画家」なんて安いコピーはつけるな。

だいいち。

岡崎サンは、しっかり生きてる。
このイマの空気を、しっかり吸ってる、頑張ってる。
勝手に殺すな。

作家・高橋源一郎が雑誌で言ってたことは、断じて正しい、曰く、
「日本漫画史上最高の天才の『新作』が3本も読めることの幸せさ」。
新作がカギカッコ付きなのはもちろん、
ここ二ヶ月ほどで出版された3つのオカザキ作品の単行本は、
事故に遭う直前までに彼女が描きあげていたものだから。
しかし、そのうちの2つ、
「ヘルタースケルター」と「うたかたの日々」はオカザキフリークの間では
伝説の長編であり、単行本化を望む声が事故直後から
日増しに高まり続けていた、半ばそれこそ神話と化していた作品なのだ。
連載当時のコピーがヤフオクなどでプレミアで取り引きされたり、
読んでいるヒトが少ないため噂が噂を呼んだこともそれに拍車をかけて。
どかは3ヶ月前に吉祥寺のパルコブックセンターで、
「来月、ヘルタースケルターついに刊行」の張り紙を見て腰を抜かしたもん。
信じられんかった、マジで。

岡崎京子の扱うテーマは、誤解を恐れずに言い切ってしまうが、
世界の虚無感に対抗する手段としての、
より深い自己の虚無感の覚醒、認識、深化である。

岡崎京子のマンガ家としての画力は、圧倒的である。
石原慎太郎が岡崎京子の最高傑作の誉れ高い「リバーズ・エッジ」を評して、
「絵がヘタクソである」って言ったらしいが、
自らの審美眼の無さをさらけだしていて哀れである。
「私は嫌いだ」って素直に言っておけばいいのに、
下手に批評家ぶってコメントするからこんな暴言を歴史に残すのだ
(ま、ちょっと違うけど「三国発言」もこのコンテクストで)。
でも、石原慎太郎に限らず、オカザキって絵、上手くないよね。
的発言が、この期におよんで後を絶たないイマの日本って、
なんだかんだ言ってサブカル世代、情けないなーって思う。
全然、見る目ないじゃんみたいな。

分かりやすく言うと、どかはルーベンスもミレーも苦手な画家である。
で、ミレーについては「絵も下手だし、個人的に嫌い」と言う。
でもルーベンスについては「絵は確かにめちゃ上手いけど、でも嫌い」。
さすがに不遜極まる私でも、ミレーの絵は下手だと言えても、
ルーベンスの絵が下手だとは言えないよ、あのデッサン力はやはり図抜けてる。
それと同じ意味で、岡崎京子のことを「嫌い」と言ってもかまわないけど、
「絵が下手だ」という言い方は著しく自らの評価を落とすから辞めた方がイイ。
ほんとやめときな、しんチャン?

「うたかたの日々」はおそらくオカザキ作品史上、
もっとも丁寧な作画が施された作品だ。
「ヘルタースケルター」はオカザキ作品史上屈指の、
ラフで荒いペン入れがされている作品だ。
でもどちらも天才の才能の小爆発が全てのコマで起きていることを、
これを読む全てのヒトに知ってもらいたい、な。
マンガは、まず、絵なんだから。

さて、それではまず「ヘルタースケルター」から、
感想文を書いていきたい。
とびとびになるだろうけれど・・・


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