un capodoglio d'avorio
2003年06月06日(金) |
藤本企画「魂込め」2 |
さて「まぶいぐみ」の役者サンたち。 何人か北区つかの役者サンが出ていたの。 代田サンと井上サンはやっぱり滑舌が厳しいなあ。 それぞれ「いい味」があって、 それがつか風の戯曲にマッチはするんだけど、 自分の「味」で勝負する前に役者として、 セリフをちゃんと客席に届けることはしないといけないと思う。
そういう意味では岩崎サン、さすがだったー。 岩崎サンのセリフが、この舞台をギゥーっと要所要所で引き締めていた。 というか、岩崎サンがいなかったら、 この舞台はちょっとキツかったんじゃないかと思うくらい。 華があるわけでは決して無いんだけど、堅実に、 カチッと心情を、苦しみを、妥協を(その役のね)、 切なく観客席に届けることをしてくれた。 イントネーションの幅が広くて自由に使えるんだよね、この人。
また、弘役の馬場サンも、なかなか良かった。 どかが見たこと無かったから、藤本企画の役者サンなのかな。 しっかり、目の前のヒトに向かってまっすぐセリフを、 自分の気持ちと感情をぶつけていたのが、地味だけど良い。 いつの間にか引き込まれる。 岩崎サンのようなテクニックは無いけれど、 その分朴訥な説得力があって、いつの間にかどかは引き込まれていた。 最初はあんまし上手くないなーって思ってたんだけど、 いつの間にか、ね。
さあ、そしてテイさん。 「熱海」の水野が「動」のイメージなら今回のウタのイメージは「静」だ。 水野の時ほど、胸にグーッと差し込まれるようなセリフの響き方は、 あんまし無かったかも知れない、なぜだろう? とくに序盤のウタの姿というのは、印象が薄かった。 でも、あるシーンでどかは瞠目する。 岩崎サンと代田サン、そして馬場サンがそれぞれの背景をさらけだし、 そしてそれぞれをいたぶり痛めつけ、ギリギリまで罵倒しあう辛いシーン。 その三人の「対話」を端で静かに聞き続けるウタの姿だ。 それぞれのネガティブな思いがどんどん加速していって掛け合わされて、 ドーンっと絶望へと落ちていくその「対話」を、 ただ、じっと受け止めている。 ボヤーっと突っ立っているわけではない。 それぞれの悲しさと痛みをきちんと心におさめていくという決意。 シンパシーを試みる想像力を、決して絶やさず諦めず、 持ち続けていくという強さがあるからこそ、ジッとしていてなお、 客席に届く確かなリアリティだ。 端でテイさんがちゃんと踏ん張っているからこそ、 ぶつかり合う三人はどんどん、相手に踏み込んで行けて、物語も進むのだ。
このシーンに限らず、今回の舞台ではウタの「受け」の演技が、 冴え渡っていて、それはあまり目立たないかも知れないけど、 やっぱりどかにとってはいちばん一番、この舞台では説得力があった。 言葉も何も言えなくなる痛みに際しても、 目も何も見えなくなる悲しみに際しても、 耳をふさいで目をつぶしたくなる苦しみのなかでも、 まだ人間には、そこで踏ん張りつづけるという選択が残されている。 そんな辛い選択なんか諦めて、目を開いていても何も見ていない、 耳はあるけど何も聞いていない、そんな人間だらけな現在だけれど、 そして自分も、自分だけがなぜそんな辛い場所で頑張らなくてはならないのか、 自問自答して悲しくなって、目も耳もふさぎたくなることもあるけれど、 それでもウタの静かに立ちつくすあの姿に勇気づけられる。
どかとしては他人の気持ちをしっかり受け止めたあとで、 爆発するテイさんを見てみたかったけれど(熱海の水野みたいに?)、 でも、それでも、充分、今回の舞台は良かったなーと心底思う。
あ、あと「魂込め」で、テイさんとともにいちばん良いなーと思ったのは、 カーテンコールで見せた、出演陣による唐船ドーイ。 どかが大好きなエイサーの演目。 楽しそうで良かったなー、一緒に太鼓叩きたーいって思ったもん。 ってか神楽やってなかったらエイサーやってただろうな、私。 って思うくらい、沖縄料理は苦手だけど唐船ドーイは大好き。 うん、まあ、演劇で最後に踊りでもってハッピーエンドにするのは反則だけど、 でも、これだったら仕方ないなーって笑って許しちゃう。
許しちゃうな、なかなか楽しめた舞台だった。 女子高生に囲まれるのも、なかなか良いし(?)。
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