un capodoglio d'avorio
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2003年05月27日(火) レオン・スピリアールト展@ブリヂストン美術館(リターンズ)

リターンズって何やねん、でもリローディドよりましか。
きょう大阪日程を大体消化して、再び上京。
東京駅に着いたら雨もよう、あー、と思ったけどやっぱりも一度行く。
だって、回数に耐えるから、すり減らないから、美は美なんだもん。

スピリアールトにとって、女性とは自分と海の境界に立つ
入り口であり看守のように思える。
そして海とは混沌であり、母性であり、身体性であり、大きく深いもの。
例えば堤防やはしけなどの直線的な構造物を、
画面のなかでめいっぱい線遠近法を強調した構成に配置することは、
結局、そういった人工物の領域の大きさを誇示しつつ、
それでも海の広大さの前にはあくたのチリに如かないことを
逆説的に示すための舞台装置なのだ。
延々続く、不気味に白く輝く堤防の向こうに、かすかに広がる黒い海は、
最初は観る人の目に訴える部分は少ないけれど、
その前に立って茫っとアンテナの感度を高めていくと、
段々その紙の上を占める割合を超えてその黒い海が展示室の中、
茫漠と広がりだす。
人工物であり海への人間の抵抗の象徴としての堤防の不気味な白は、
もはやその不気味さにおいての役目ははたせず、
黒の波間に消えていく。
そこで気づくのは堤防の向こうにかすかに見える街灯の光。
それはあまりにはかなく、あまりに切なく、
象徴と呼ぶにはあまりに直裁的な「その」イメージを象徴する明かりは、
黒い海が広がりを見せるのとは対照的に、後退していき段々消えていく。
明かりが消えてしまった瞬間、鑑賞者は展示室に取り残される。

どこかに救いがあるようには、とても見えない。
そういった不穏な画面のなかに、スゥっと立っている女性でさえ、
鑑賞者に対して何かしらポジティブなイメージをもたらすわけではなく、
むしろその海の混沌の凶暴性を開示する扉としてそこに立っている。
ので、その女性のキャラクターであるとか人格であるとか個性であるとか、
そういったものは全て残さず剥奪されて、ただ、
女性の向こうに私たちが見るのは背景の海の、一番深い、一番広い、
一番いちばん残酷で優しい暗闇、ただそれだけだ。

ガラス張りの屋根の部屋とか、美容室の壁にかけられた外套とか、
黒い大きな瓶に映り込む白い光とか、繊細なハッチングで仕上げた樹木とか、
そんな主題のバリエーションも、全てはその残酷で優しい暗闇と、
そして、それに対峙する画家の、私たちの切ない孤独がテーマということは、
変わりがなく、でも、それは決して退屈ではないし、
ましてこの画家の価値を貶めることは有り得ない。

主観と客観という二つの尺度にむりやり世の中を分けたとして、
主観は一人きりの限定された行き止まりの「ものさし」。
という言説は10%くらいの誤りを含んでいる。
例えば、その10%を証明するのが、スピリアールト。
主観も掘り下げて掘り下げて、自らを切り刻んで傷つけて、
死んじゃう一歩手前までぎりぎり降りていったら突然広がる地平が確かにある。
その地平にたどり着くにはそれなりの犠牲や代償は必然なのだけれど、
例えば、スピリアールトが20代での失恋の果てに手に入れたあの、
青と黒の淡彩による海の表現とは、ありそうでありえない、
広がる地平にたどり着きつつある広がりを、
ズームアウトとズームインを同時に行う視覚の不可能を、
そして優しさと残酷、安心と孤独を、
全てを一気に昇華せしめる表現の端緒であったとどかは思う。

自画像とかもなかなか刺激的で、
どかはシーレのそれと比べていろいろ思うところもあって。
ウィーンとベルギーで同時代に生きたシーレとスピ。
肉へ固執したシーレと、骨を志向したスピ。
面白いなあ。
なんで、いままでちゃんと知らなかったんだろうな。

でもいま、ちゃんと彼の作品に触れられたことは、せめて良かった。
ブリ美の学芸員様、ありがとう。


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