un capodoglio d'avorio
2003年05月10日(土) |
青年団「隣にいても一人」 |
「ヤルタ会談」のあと、少しインターバルおいて観たふたつ目。 これは70分ほどの舞台、オリザお得意の穏やか不条理劇。 ある意味、パロディと言えないこともない。 セリフに出しちゃうところがオリザさん一流の「照れ」なんだろうけど、 「カフカのまねごとしてんじゃないよ」って。 もちろん21世紀にいきなり羽虫になってもしかたないわけで、 この舞台でいきなりなっていたのは「夫婦」。 存在の不条理ではなく、関係性の不条理を問うたわけだねー。 もともとカップルでも何でもなかった知り合いの男女が、 朝起きてみたらいきなり「夫婦」になってしまったら。
・・・青年団の舞台には、緞帳は似合わない。 逆に、つかこうへいの舞台には、緞帳は不可欠だ。 それは「浸透圧」の問題。 つかの舞台は圧倒的に浸透圧が高いから、 開演前には緞帳でそれをシャットアウトしとかないと、 客入れどころじゃなくなってしまう (一方で開演後は、そのモル濃度が急激に変化させることで、 浸透圧のかかりかたが激変する、それがつかのドラマツルギー)。 逆に、平田オリザは浸透圧を下げて下げて、 客席と、もっと言えば、劇場の外の世界の実際と、 完全に連続した空間を創出したいから、緞帳はジャマでしかたない。 けれども、この脚本は不条理劇。 外の実際と連続したところに不条理をおとすことで、 一体何が見えてくるのだろう?
いきなり「夫婦」になってしまった二人のそれぞれの兄と姉が、 知らせを聞いて訪ねてくる、半ば呆れながら。 実はこの「夫婦」の兄と姉は結婚していて実際に夫婦である。 しかしながらこの実際の夫婦は離婚するところだったという設定で。 実際に夫婦だった兄と姉は、いきなり「夫婦」になった弟と妹に、 「いいかげんにしなさいね」と諭すけれども、 「夫婦」な二人は「もう仕方ないんだよ」としか説明できない。 けれども会話の中で立ち上がるのは、 兄姉夫婦の「離婚」も、やはり不条理な出来事としか言えないことや、 他人には他人のことを理解することなどとうてい出来ない当たり前具合。 この辺の不条理が、ぐるーっと回転して、 実際と虚構が気づいたら裏表になっていくのが、 滋味溢れるふっつーの会話、穏やかなよた話やグチの中に見えてくるのが、 「青年団クオリティ」で楽しい、さすが、役者も、ほんっとに上手い。
この不条理さを兄と姉に分かってもらおうと必死になっていたのは、 いきなり「夫婦」になった弟と妹。 でも、弟と妹こそ、一番、この不条理に飲み込まれる不安におびえるのは、 やっぱりこれも当たり前具合な感じ。 もはや、個人個人の知覚や想像力なんてたかが知れてる限界にあたっていて、 全てのことはまだ起こっていないけれど、 全てのことが起こったとしても何ら驚くに値しない。 そんな世の中だ。 でも、驚きはしないけれど、それでも人間は弱いし辛いし、 不安に怯えてしまうのは当然で。 じゃあ、じゃあ、どうするんだよー。 ・・・という現代人の底抜けに明るいどん詰まり感が70分に結晶。 登場人物は4人で、テーマもほぼキメ打ちで絞り切ってるから、 その分、瑞々しいすっきりした観劇後の印象。 青年団本公演後の、あのインパクトは無いけれど、 やはり時限爆弾が、帰路で、そして自室に戻ってから パンパン爆発するのが聞こえてくる。
ラストシーン、兄と姉が帰って「夫婦」になった二人は寝支度に入る。 当面はこれが「初夜」ということになり、さっき兄に囃されたりもしたけれど、 実際どうすればいいのか、二人はかいもく見当がつかない。 つかないんだけれど・・・
「あたし・・・歯、みがくね」
「ああ、うん・・・パジャマ、おれ、着替える」
「ああ・・・はい」
っていう二人の「可愛らしい」会話を、私たちは笑うのだろうか。 岡崎京子はいみじくも語った;「笑いは叫びに似ている」。 そうして二人はそれぞれ上手と下手にはけていき、終幕。 緞帳は下りない。 観客はでも、ああこれがラストシーンなんだねとなんとなく悟る。 この「悟った」一瞬、浸透圧がグラッと動く気がするこの瞬間が、 どかは青年団を観に行く理由なんだと思った。
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