un capodoglio d'avorio
2003年05月09日(金) |
青年団「ヤルタ会談」 |
本当は5/10の土曜日に観た舞台なんだけど、 便宜上、ここに書いてしまおう。 35分ほどの短い公演、またしてもパロディ、 まあ、ほとんど全ての芸術表現はパロディだと思うけど、 言葉の強い意味として、まっとうなパロディ。
舞台には畳が引いてあって、その上に不格好な絨毯、 その上に椅子が三脚とティーテーブル、 椅子の背もたれには大きくひらがなで、 「すたーりん」「ちゃーちる」「るーずべると」 と書いてあって、まず登場したのは、 すたーりんさん・・・ 先だっての「忠臣蔵OL編」を観ていたから、 もはや驚かないけど、でも笑っちゃう、楽しい。
<ヤルタ会談>1945 ヤルタ協定を成立させた第二次大戦中の連合国主要会談の一つ。 米ルーズヴェルト・英チャーチル・ソ連スターリン3首脳が、 独の無条件降伏と米・英・仏・ソの分割占領計画、戦犯の処罰、 ソ連の対日参戦と千島樺太領有、旅順租借権の回復、 南満州鉄道の中・ソ合営などの秘密協定を決定。 ヤルタはクリミア半島の都市(「世界史事典」数研出版)。
という歴史上のイベント、ヤルタ会談を再現するという舞台、 でもオリザにかかるとこんなにも脱力ぐでーな感じ。 脱力モードが発動する理由は、魔法でもなんでもなく、 明らかなたった一つの原則に則っているからなのな。 つまり「セリフは現代口語日本語」オンリー。 このルールをどの劇作家よりも、 厳密に完全主義的につきつめたところから生まれる脱力感 (やっぱ、魔法かもね)。
でもね、パロディとは言いつつ、やっぱこれは青年団なんだよね。 新感線みたいに「あはは」と笑ってシャンシャンシャンにはなんない。 まあプロットもプロットだし、当たり前だけど現代社会への鋭い皮肉が、 見事に全編に渡って投影されている。 そしてその皮肉は二段仕掛けの時限爆弾となっていて、 観ている瞬間は笑いとしてまず炸裂し、 そして帰路についた観客の中でじわじわと何かしらの情感が爆発する。 まるで劣化ウラン弾みたいに? またはクラスター爆弾の不発弾を日本人記者が持ち帰ろうとしたみたいに (笑えないか、ゴメン)?
だから、この良質な喜劇は、同時に反戦へのイデオロギーに満ちている。 一見、とてもそう見えない。 いや、カーテンコールになっても、そんな雰囲気は微塵も感じられない。 そこが平田オリザという演劇人の、とてつもなく知的な作業のたまものだし、 演劇フリークによっては、その「知的さを隠せるほど知的な」青年団の 作風が受け入れられないと言うのも、良く分かるなあ。 どかは、知的な人は大好きだから、 そんな人に搦め手をくすぐられるのも、やっぱり大好きなの。
劇団の中でも割と「お太り気味」な女優二人と俳優一人、 それがお菓子ぼりぼり食べながらノンベンダラリーと、与太話。 そのテーマは、ポーランド分割だったりアウシュビッツの話だったり、 イギリスのサイクス=ピコ条約だったりインドのガンジーだったり、 カミカゼについてだったり満州だったり新型爆弾だったりするんだけど。
で、すたーりんが席を立ったら、あとの二人が 「あの人怖いよねー、スパスパ首切るんでしょー?」って言ったり、 るーずべるとが席を立ったら、 「あの人、新型爆弾のこと、隠してるよねー、どんななんでしょ」だったり、 ちゃーちるが席を立ったら、 「誰のために戦争してると思ってんでしょうね、あの人ったら」って言われたり。 世界史を高校ン時取っていたら、いや、取ってなくても、 普通に新聞読んで普通に常識があれば笑えてしかたないのな、どこもかしこも。
あ、でも普通に常識無い人がたくさんいるから、 小泉純一郎とかが「イラク攻撃支持します」発言したときも、 彼を首相官邸からたたき出すことができなかったのか、私たちってば。 だったら、パロディとか観劇とかじゃなくて、 普通に必須のお勉強として日本国民はこの舞台、 全員観るべきだな、やっぱり。 パレスチナ問題とか、あっという間に本質が分かるもんねー。 マイケル・ムーアとは少し趣向が違うけど、 感情と知性を高いバランスで両立させることができる芸術家は、 ここにもいるのな。
パロディとは、観客がいて初めて成立するジャンル。 そういう意味では最も純粋なエンターテイメント。 でも平田オリザは喜劇じゃなくても、 いつでも観客席のまなざしを想定した舞台を作ってきている。 それはその辺の凡百の劇団が想定している度合いとはレベルが違う、 密度と徹底度で、まなざしを想定している。
それはあの静かな穏やかな舞台上の「時間」とは、 かけ離れたイメージだけど、それはそうなのだ。 どかは、ここに、平田オリザと青年団の深淵が横たわっていると思っている。 いつかちゃんと、そのことを書いてみたい。
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