un capodoglio d'avorio
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2003年05月01日(木) 追悼・加藤大治郎

本当はまだこのタイトルで文章を書くべきじゃない。
それは、分かってる。
でも、大チャンのご家族の無事を祈りつつ、
少しだけ書きたいなって思った。

加藤大治郎の人柄は、ほんっとに気どらない、力まない、
ごくごく普通の兄チャンだった、商店街歩いてそうな。
原田哲也みたいないわゆるレーシングレーサーっぽい、
張りつめたような緊張感をオーラにまとうわけではなく。
そして話すことがあんまし得意じゃなく、嫌いじゃないけど、
インタビューでも言葉を1つ1つ、慎重に選らんで話してて。
顔はとてもすっきり、ハンサムさんで、
そしてマシンにまたがったときは誰よりも速かった。

例えばF1のアイルトン・セナとか、
例えばGP500のウェイン・レイニーとかは、
自らの世界感を、サーキットの極限状態を、
きちんと言葉におとして秩序付けを試みたタイプの天才。
でも大チャンは、言葉を、置き忘れてしまった人。
言葉で自分の世界の輪郭をなぞらなくても、
べつだん平気な天才だった。
まあ、インタビューに応えるのんへたくそーって、
そういうこともあるんだろうけど、今となっては、
「言葉すら、彼の速さには追いつけなかった」
という感じがしてしまうのは、有り体な美化なのかな。

昨年のシーズン前半は、ロッシや宇川など、
一部のライダーのみが4ストロークのマシンを配給されて、
レースではそのマシンの戦闘力の違いのみが印象づけられた。
2ストマシンで、必死にがんばってた大チャンは、
「なぜ、いま自分がこのマシンなのか」と、
内心、忸怩たる思いを抱えて走っていたのだと思う。
ほとんど周囲全ての人間がそう思っていたんだもん。
本人が一番、きっと、悔しかったと思う。
でも大チャンはいつものように飄々と、
自然体で顔に出さず、涼しい顔でレースに臨んでいた。
大チャンの一番カッコよかった姿として、
どかが今思い出すのは、
レースシーンでもいくつもの表彰台でもなく、
この「涼しい顔」だ。
自分への自信と、周囲との温度差、マシンの違いの理不尽、
悔しかったり、当たり散らしたかったり、泣きたかったり、
そんな全てをお腹に納めて、スッとピットロードに立つ、
大チャンの横顔、美しく悲しいその、シルエット。

そしてシーズン後半Rd.10のチェコで、
やっと手に入れた念願のRC211V。
ニューマシンも手の内に入れて、さあこれからという時だった。
2003年4月時点で、およそ地球上に加藤大治郎ほど、
希望と確信に満ちて未来に挑もうとした人間がいただろうか。

神様のバカヤロウ、しっかり反省しろ。
大チャンは当然のように、世界チャンピオンになれたんだよ。

・・・

神様の、バカヤロウ。


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