un capodoglio d'avorio
2003年04月06日(日) |
つか「熱海殺人事件 平壌から来た女刑事」(BIG FACE)2 |
さて、てひチャン水野。 もう最初に舞台上手から彼女がスッと出てきた瞬間、 顔が弛む、だらしないどか。 もう、さっき見た木下サンには申し訳ないけれど、 あっという間に木下水野の面影は上書きされ消去。
やはりネイティヴのハングルは耳に心地よい。 その意味がわからなくても、気持ちがちゃんと伝わる、 それは段取りで話すのではなく、目の前の相手に自分の感情を伝えようと、 気持ちを乗せて発声しているからだ。 そして相手がそれに対して返答すれば、全身全霊で、 てひチャンはそれを受け止めていく、センターに立って、 身体の軸はぶれずにまっすぐ立ちながら、そして剛速球の痛みが立ち上がる。 てひチャンがそこにいたから、どかの涙腺は、メルトダウンしたのだ。
「平壌」バージョンでは、熱海定番の浜辺のシーンは、 (この劇中劇のシーンで殺人事件の真相が明らかになる) 真ん中で一度中断が入り、捜査室が「どん底」に落ちる。 水野が過去、伝兵衛の父親に抱かれていた事実が明らかになって、 そのことで彼女を許すことができなかった伝兵衛の弱さがさらされる。 また、水野は水野で、赤ん坊をかつて宿していたが、 伝兵衛の子供か父親の子供かわからなかったため堕胎してしまう弱さも明らかに。 大山は大山で、踏ん張りきれずにアイ子を殺してしまっており、
水野 私はベストを尽くしましたから
の「ベスト」という言葉の響きが、切なく、空しく響いてしまい。 捜査室が絶望のどん底に突き落とされ、そこから、水野は最後の捜査、 浜辺のシーン・劇中劇を再開する。 自らの「ベスト」をもう一度検証するために。 そして、伝兵衛への愛をもう一度検証するために。 どん底からはい上がる唯一のハシゴとは、前向きのマゾヒスムを押し出すこと。 つまりテンションを極限まで上げきって、もっともっと、 どん底を求めること以外に「本当の」救いの道はない。 大山は言った。
大山 オレらみたいなバカは、許すこと以外人生、何ができるね
しかし、このセリフは哀しくも裏返される。
大山 人は下を見て生きていかないかんとです
それに対して水野演じるアイ子はこう言う。
水野 正しく生きていってもエクスタシーはなか
そして夫である大山に対してのファイナルアンサー。
水野 あんたなんかと一緒になるくらいなら 半蔵さんの愛人でいるほうがよか
この一連のてひチャンの狂気。 ここで大山は「諦観」を、水野は「享楽」を象徴しており、 現代の病巣を繁殖させる2つの要因がこのシーンに集約される。 野島伸司が「高校教師」において対立させたように、 現代という時代の空気を吸って、 そこに潜む虚無に対して身体を張った表現を求めるならば、 必然として、この2つの壁に行き当たる。 そして、この2つの壁から逃げずに、玉砕することができるならば、 剛速球の「痛み」と引き替えに、表現者はリアリティを獲得することができる。 つかは、ここで、水野を大山に殺させて、大山を伝兵衛に死刑台に送らせる。 全ての「痛み」を引き受けた上で、舞台をハッピーエンドに導くのは川端伝兵衛だ。 しかし、そのハッピーエンドのためには「痛み」を加速させなくてはならない。 極限まで加速させて、「剛速球」としなくてはならない。 てひチャンの「華」は、ここに集約される。
それまでの芝居で誰よりも明るく、誰よりもけなげに、 他の登場人物の「絶望」を受け止めてきて、 しかし自らの「絶望」を突き詰められたとき、 水野朋子という一人の登場人物の堤防は決壊する。 この堤防をどれだけ高く築くことが出来るか、 どれだけ激しく、一気に決壊させることが出来るか。 そしてさらに、決壊したダムの底に「尊厳」をかけらでも残すことができるか。 分かりやすく言うたれば、それが、役者の力量というものだ。
てひチャンは浜辺のシーンの次ぎに来るパピヨンのシーンで、 花束でうずくまる大山をめった打ちにする。 このシーンの彼女の「痛み」。 花束や新聞紙の棒でしばき上げられる大山の痛みは、 すなわち、しばき上げる水野の痛みだ。 大山の「ベストを尽くせなかった弱さ」とは、 水野が「ベストを尽くせなかった弱さ」に他ならないからだ。 「痛み」にうちひしがれたその両者の周りに、 パァッと花束から散っていく花びらが舞う。 その厳かな美しさ。 「痛み」をとりまき優しく包むようにあざやかな花びらが空中を囲む。 そして、伝兵衛はこの「美しさ」を手がかりにして、 まさに自らの魂を燃やしてハッピーエンドに力業で押し上げるのだ。
このときの花びらの散らし方こそ、熱海が成立するかしないかの瀬戸際。 てひチャンの大山をしばき上げる、その姿勢は素晴らしい。 腰が入っていて、手だけじゃなく、全身の筋肉を使って、 がんがん、大山の背中をしばき上げる。 木下サンや、高野サン、渋谷亜紀は、手打ちになってる。 腰も入ってないから、花びらがうまく散らない。 てひチャンは違う。 そのベビーフェイスが「痛み」に歪み、 しかしその歪みこそが美しく、花びらが華へと昇華する刹那。
やはり、つか最大のヒロインだ。 大山を打ちのめした後、机に腰掛け、ライフルに弾を込めるてひチャン水野は、 あくまで凛々しく、目が離せない。 そして、スナイパーてひチャンは、仇である半蔵を撃つのではなく、 伝兵衛が加えたタバコを狙撃し、火をつけるのね。 「あとは、あなたにハッピーエンドを託します」とでも言うかのように。 素晴らしい演出、ぜったい、つかこうへい自らつけたんだ、このシーン。
つかこうへいサマ、どうかお願いです。 金泰希という、稀代の女優とともに「広島に原爆を落とす日」、 もしくは「飛龍伝」、「銀ちゃんが逝く」をやってください。 金泰希なら、これまで様々な女優をことごとく敗退させた上記の戯曲でも、 十分乗り越えて華をスパークさせることが出来ます。 この華を、北とぴあのみに留めておくのは、既に犯罪だと、私は思うのです。
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