un capodoglio d'avorio
2003年03月04日(火) |
キャラメルボックス「太陽まであと一歩」 |
「キャラメルは一日にしてならず」ということを身にしみて感じた、ある意味究極を見せつけられた、そんな夜だった。
これまでどかがことあるごとに否定し続けてきた小劇場界のゴリアテ・演劇集団キャラメルボックス、生で観るのはこれが最初。もう入り口からしてどかには違和感バリバリ。どこだここわ。京都にあるというジャニーズのミュージカル劇場か(巨人・ゴリアテが腰低く張り付いた笑顔を見せてくることの何とうすら寒いことか)?
イヤ違う、ここは池袋、サンシャイン劇場。そういえば、どか、サンシャイン劇場も初めてだ。これだけ芝居見続けてきて初初づくしだわ。
なぜにどかはここにいるのか。やっぱり一度、生で観たかったというのがあったの。以前VTRで観たときに「ああ、これやったら別に生で観てもVTRでも変わらんわ」って思ったことがあって、でもそうは言っても、生だと奇跡が起こるのかと思い、キャラメルフリークのなつなつにお願いして「上川隆也が出てるヤツ、チケ獲って!」。やっぱ、キャラメルといえば、小劇場界のプリンチュ・上川隆也。去年の上半期の話題を独占した小劇場役者オールスター公演「天保12年のシェークスピア」で主役を張るほどのスターさま、ホームグラウンドで一度観たいなーっていうのも、実はずっと、あった。食わず嫌いはいけんね。
ストーリー。あるところに仲の悪い兄と弟がいました。兄は若手映画監督。弟は助教授です。ある日、兄は自分の撮った映画を家で鑑賞したまま居眠り、しかし、一向に目を覚ましません。兄の奥さんが映画をもう一度観直してみると、なんと映画のワンシーンに映るはずのない主人の姿が。すぐに弟に連絡して助けを請います。弟は映画嫌い、駆けつけてみるものの「そんなバカな話があるわけない」ととりつく島もありません。しかし、映画を渋々観ていると「!」。そうです、兄の映画とは自分たち兄弟がかつて幼かった頃、母親の離婚騒動で一緒に実家に戻っていたころのエピソードを綴った映画だったのです・・・。という感じ。まあ、ステキ(どこが?)。
まあ、どう、ひいき目に観ても、ストーリー自体には観るべきものは、やはり無く「はあそうですか」ですむ話。それは措いておくとして、舞台美術。これはまあ、趣味嗜好を除けば、客観的にはきちんとお金をかけるべき所にかけていて、上質なキャラメル風味。イイ感じなんだと思われる、きっと。そしてどかがまず目を見張ったのは次の二つ「音響」と「照明」。
イマドキのウェルメイドな作風全盛な演劇界ですら貴重なんだけど、BGMを結構頻繁に流し続ける。それが、決して役者の演技のジャマにならないよう、細心の注意を払い、また選曲それ自体もまあ、キャラメル風味で上質な味わい。フェードイン・アウトも、さりげなく凝っていて、お金をかければ舞台が映えるポイントを、ほんっとに把握してらっしゃる感じ。素直に感心。
そして「照明」これはもう定評があったし、どかも楽しみにしていたの。新感線みたいにあほみたく金かけて灯体をつり込んでいるわけでもないし、ムービングライトを使ってアイドルのライブばりにカクテル光線を作っているわけでもない。やっぱり若干青系の光が多かったけれど、でも基本はオーソドックスな照明プランだと思う。それが、見事にハマる。うまいなあ。キレイだわ。こんなに照明のいい舞台って、他には今は亡き遊◎機械ぐらいしか知らないどか。
「美術」「音響」「照明」ひとつ一つ洗練された手法でまわりを固めていくその意図はたったひとつ「よりよく役者を見せるため」だ。そうなのだ、キャラメルボックスの芝居って、ウェルメイドだけど、やっぱり行き着くところは役者芝居なのだ。そういう意味では、野田よりも鴻上。蜷川よりもつか、に近いんだと思う。
さて、そのご自慢の役者サマはというと「確かに上手い」という感じ。劇団制をとっていて、かくも長きにわたってこれほど、演技力という点においてアベレージを保ち続けている劇団を、どかは他に知らない。今や、新感線も、若手が育たずお寒い状況。劇団を諦めた野田や鴻上は言うに及ばず、北区つかもこの尺度ではとうていたちうちできない。大人計画?いやちがうな(あそこは演技力じゃなくて変態度だもん、基準)。ああ、扉座がいた。扉座とキャラメルくらいだよなあ、このアベレージの高さ。すなおに感心。だって、どの役者をとっても「穴」がいなかった。ぽっと出の若手すら安心感を醸して。
どかが一番良いなと思ったのは岡田達也サン。若手のエースなのかな?ちょっと情けない感じの好青年風、とてもお上手だわ。もちろん御大、西川サンもカッコイイ。今回はあんましおとぼけ風ではなく、クールに思いつめてく自爆キャラ。説得力あるよね。そしてすたーサンの上川皇子。演技力では西川サンに劣るし、声の通り・ハリでは岡田サンに全然及ばない。でも、何というか、人の目を集めてしまうのな。すごい色っぽい声をしてると思う。決して通りの良い舞台役者チックな発声ではないのだけど、ちょっと香気漂う、イイ感じな声。間を取るのも上手。さりげないけど確かな「華」があるね。女優さんはみんなお上手。でもみんな似た感じで、区別つかんかった。まあつかの金泰希サマや扉座の伴美奈子サマ並みのヒトはおらんね。
ああ、そうそう。ダンス!ダンスはね、すっごいかっこよかった。ちょっと、有り得ないくらい、かっこよかった。他の劇団のダンスは、確かにもう観られないかもと思うくらい。ある意味、だって、職業ダンサーの方々のパフォーマンスと比べても、こっちのが華があって誠実で、絶対巻き込み力が強いと思う。
と、役者サン達の技量には確かに感服するけれどでも・・・役者サンたちの会話や動きにも最後まで、どかには違和感が残ったのも事実で。ぶっちゃけていってしまうと、どかにはキャラメルの芝居、高校生の「学芸会」の延長としか感じられなかった。そりゃあもちろん、上記で挙げた全ての要素ひとつ一つのクオリティは圧倒的に高く、そこらの高校生の演劇とは比べられんけれど、でも、それと全く別物だとは、どかには思えない。たとえば、つか。たとえば、野田。たとえば、鴻上・・・はちょっとグレー。たとえば、青年団。明らかに高校生の「学芸会」とは、ジャンルというか種類そのものが別なのだ。同じハコにカテゴライズするのが不可能。でも、キャラメルの舞台は、同じハコに入れちゃえそう「学芸会」箱に。
具体的にどこが「学芸会」かと言うと、役者のセリフや動き、その他全ての演出が全部「段取り」になってる。たとえば西川サンと上川サンの兄弟がけんかしてるシーンでも、二人は本当に上手に的確なタイミングで自分のセリフを言ってるんだけど、全部、段取り。そこにはつかが言う「ぶつかり合い」は無いし、オリザの言う「対話」も無い。だから観客も、自分の基盤が揺らいでしまうほどの衝撃を得ることは無いし、自分の尊厳がチャレンジされるほど危うい場所に追いつめられることもない。シートベルトもちゃんとあって、エアバッグも完璧装備。役者の一人一人が自分のルーティンをせっせとこなし、それなりに哀しいかも知れない風な気分、嬉しいかも知れない風な気分までは醸し出してくれるから、安心、安全、シャンシャンシャン、はいおめでとー!と、いうサラリーマン芝居。それがキャラメルなの。
でもそんな、セーフティネットばっちしサラリーマン芝居こそ、きっとキャラメルが目指しているところなんだよね(観客よいしょしてなんぼ、みたいな)。確かにこれは、一部上場企業並みの一般小劇場ファンへのマーケティングリサーチを徹底して行い、もっとも効率よく最大公約数を拾うための戦略に充ち満ちた舞台だよ。つかの長セリや、オリザの沈黙というのは、現代の短絡的に疲れてる100人の若者を集めてぶつけてみても、きっと20人そこそこにしか響かないんだ、哀しいけど。でも西川サンのつまんないギャグや、上川サンのうらぶれた笑顔には、きっと78人くらいが反応する。あとは、20人を取るか78人を取るかというのは、それぞれの劇団の主宰が決めることなんだから、それに異論を挟む余地は無いよね。異論が言いたかったら、その短絡的に疲れてる100人に言わなあかんことくらいは、どかも分かってる。
・・・結構、ひどいこと書いてるのかな、私。これでもかなり見直したんだけどな。キャラメルボックス制作総指揮の有名な加藤サンが声からして前説やってるの見てたら「四の五の言わないでこのプロフェッショナリズムを見習うべき劇団は多いな」と思ったもん、その志が低いとは言えね。プロフェッショナリズムという点で言えば、キャラメルに伍することができるのは青年団くらいじゃないかなあ、小劇場の劇団では。北区つかなんて、あまあまだもん、劇団運営。で、それを是としてるところが、バカみたい(めずらしくつか批判)。
どかの中でひとつ、知りたかったのは「キャラメルと扉座の違い」だったんだけど、それはまだ分かんなかった。ちょっと引き続き考えよ。どかにとって「扉座はアリ」なんだよね。・・・似てるのにね、なんだろ。
結論。キャラメルは一日にしてならず。万里の長城と同じくらいには価値があると思いました。こんなところでいかがでしょう、なつなつサマ(おこられそー・・・)?
|