un capodoglio d'avorio
2003年03月05日(水) |
よしもとばなな「ハゴロモ」 |
きょうは朝から散髪。夜は芸能研。ひさびさに「課題演目」を踊っていろいろ思うところあるし、くまくまのを見ていろいろ思うところがあるけれど「書いちゃダメ」って言われたから(チッ)、代わりにレビュー書く。
先週末、帰省から戻る新幹線の中であっという間に読んじゃった小説。かなりの衝撃だった、これわ。作者いはく「青春小説のど真ん中!」らしい。うん、そう。そう断りを付けたくなる気持ちは良く分かる。きっと、恥ずかしいんだろう。なぜ恥ずかしいのか。よしもとばななは、ほんっっとに行き当たりバッタリ、整合性の「せ」の字にも背を向けて、書きなぐった小説なんだもの。
どかは去年、よしもとばななの「王国 その1アンドロメダハイツ」を読んだときにね「ああ、この人、すっごい小説、上手になったんだなあ」と感動したんね。「ヘタウマ」文体にこだわりつつ、全体の構成をじつはきちんと踏まえて、細かいエピソードをちゃんと整理して、しかもそんな苦心の作業の跡をほとんど残さないように文面をならしていく作業。自分の苦労を隠しててきとーっぽさに自分のメッセージを溶かしていくその手腕は一流だなあと感動したの。「キッチン」っぽいけど、さらに先に進んだ成果だとどかは書いた。
でもねえ「ハゴロモ」。文面は確かにならされているかも知れないけれど、全体の構成、細かい場面の整理、ほとんどしてないよね。ただ、なんか思いついたらそのまんまどんどんリアルタイムで文字に落としましたあ!っていう迫力を感じた・・・
ストーリー。自分の青春をかけた不倫の恋に破れた20代後半の女性が実家に帰って、ちょっとずつ元気になってく話、以上。なるほど。「王国」では急に一人ぼっちになった女性が都会に出て、ちょっとずつ元気になってく話だったけど、今回は失恋な訳ですね。・・・・だからか。
時以外のものに癒されるのもいやだったから、 親切にしてくれる男の人をことごとくさけていたし、 話が深くなりそうな女の友達もついさけてしまった。 自分の弱さの程度が全くはかれなかったからだった。 (よしもとばなな「ハゴロモ」)
構成や場面に気を遣っていない分、こんな感じの純度の高いばなな節が次から次に炸裂するから、ばななフリークには悦楽の極みかも知れない。テーマ的には「王国」からまた、一歩、後退してるみたいな気がした。でも後退じゃないのかも知れない。作家の中には前から変わらない、でも日々少しずつ変わっているひとつのテーマがあって、それをピンスポットでキレイに抜いたら「王国」になって、ユニゾンでふわーっと浮かべたら「ハゴロモ」になるのかな。
・・・どかの中での「よしもとばなな理解」は以下の感じ、ちょい長くなるけど。
ヒトは疲れてしまうこともある。くたくたに倒れてしまうこともある。そしてよりによってそんなとき、はしげたが崩れ落ちて川の真ん中で溺れちゃうことは、実はおうおうにして良くあることで。そんなとき、あわあわしつつも対岸に向かって救助を求めてしまう。空を仰いでヘリコプターが突如、なんて夢を見たくなってしまう。でもね、自分の外に対していくら手をさしのべてもダメで。あわあわごぼごぼ、たくさん、水も飲んでしまうだろうし、ジーパンも足に張り付いて動きづらい。でもね、それでも、自分の手で水をかいて、自分の足で水をけって、何とか浮力を作らなくちゃって、身体が先に動いてるの。もちろんそんなの一瞬でイアン・ソープになんてなれないから、でも「バタ足金魚」のカオルくんくらいにならそのうちなれるから、ばちゃばちゃヘタクソに身体を動かして。そしたら、あら不思議。いつの間にか対岸に着いてるわ。川を振り返ってみると、そんなに汚れた水じゃなかったし、ヘドロに足をとられることもなかった。いくつかラッキーも重なったけれど、はしげたが落ちたアンラッキーもあって、なんだか、ふふん、そんな感じ。
・・・長くなったな、でも、よしもとばななって、こうだと思う。基本的に、全部。キッチンのころからテーマは若干深度を増したけれど、でも基本は変わらない。変わったのは書く技術。技術が向上するのは、いいことだ。だから「ハゴロモ」をどかは決して絶賛はしない。インスタントラーメンを出すラーメン屋とか、バスターミナルの神様とか、そんなプロットがきちんとおさまってるとはとても思えない。でもね。それとは別に。作家が無意識のうちに、このテーマを大切に大切に抱いてきょうの日にたどり着いたのね、っていうことがはっきり分かって、この小説は個人的に好きかも知れない。
あ、そういえば、「キッチン2(満月)」に似てるのかな?21世紀の「キッチン」が「王国」で、「キッチン2」が「ハゴロモ」。うん、完成度の低さとか、作家のいっぱいいっぱいな感じとか、どかにとって1よりも2のがより胸に迫る感じとか。これはあの、スランプの時期に舞い戻ってしまったことを示す作品ではない。むしろ、高らかに江戸の街に響きわたる、登城太鼓なのさ。
いやしかし、そのどちらも誰かの考えた方法論だ、と私は思った。 何かで見た決まり事や、誰かがよしとした考えだ。 私は時間をかけて、自分がちゃんと流れ着くようなところへ行こう。 そのためには、もう少し時間をかけなくては、と思った。 (よしもとばなな「ハゴロモ」)
|