un capodoglio d'avorio
2003年02月21日(金) |
野島伸司「高校教師('03)」第7話 |
第7話「二人が結ばれた夜」
今回はとても「痛い」話だった。切ないなあ。郁己がどんどん壊れていってしまう・・・。
郁己 この場合、セックスはその辺にありふれている 快楽的なものではないんです とてつもない不安や孤独から、一瞬でも他人と繋がりたい そうじゃないとおかしくなってしまいそうで 要するに…生きることなんです 僕は…彼女のそれを拒否してしまった…
この百合子とのシーンに先駆けて、雛が郁己に抱いて欲しいと願ったのね。そのシーンの雛の壊れそうな小さい肩は、もはや依存だの恋愛だの、そんな定義づけに何の意味があるのだろうかと疑問を投げかけるくらい切なく美しかったあ。けれどもそこで郁己も一度は必死に努力してふんばり、拒否をする。なんで?多分、二つくらい、その理由は想像できる。
一つには雛と郁己の関係が、彼の「悪魔的な」嘘に立脚しているために、度を越えて深い関係に踏み込んでしまうのはためらわれる。みたいな、冷静で客観的な判断があったんだと思うの。必死に偽悪的に振る舞い、雛を拒否する郁己は、とっても痛ましい。何故って、ほんとうは雛よりも自分こそ、彼女にすがりたくて依存したくて恋愛したくてたまらないのだから。「君のことを思い出に背負って生きてくのはヤダ」という郁己のセリフはそのまま、自分自身に跳ね返ってしまうセリフで。相手を傷つける以上に、自分をどんどん傷つける構図。「鏡面化」という心理用語を知らなくても、このシーンの雛の切ない純情と、郁己の切ない思慮を目に焼き付けることはできるのね。それが、ドラマのリアリティ。
けれども、郁己が「か細い途切れそうな客観」の綱渡りをたどることができたのはこのシーンが最後だった。穏やかに、あくまで穏やかに、狂気に踏み込んでいく郁己。演出が脚本家の注文により「フラット」な絵作りに徹してるため、ぼんやり見てるとそのまま流してしまいそうな郁己の狂気は、ついにそのブレーキを放してしまう。依存と恋愛の境界がゆっくり溶けてゆき、うっすら浮かび上がる感情、嫉妬・・・。そうして「鏡面化」が限界まで推し進められたシーン。
雛 それでね、その後、死んじゃおうって思ってたんだ おかしいのあたし さっきまでそんな風に、どうでもいいって 死んじゃおうって思ってたのに 今はまるで違うの 先生の顔見たとたんだよ 死にたくないって わたし死にたくない…
雛を後ろから抱きしめる郁己。二人のシルエットが灯台の光に乱反射する水面(鏡面化の暗喩だろうねー)に映えて、美しい。場所は、湘南。そう、鎌倉・湘南と言えば、前作高校教師('93)でも繭と隆夫の二人の関係にとってターニングポイントとなった場所、結ばれた聖地。はー、こーゆう、リンクネタ、フリークには限りない効果を発揮するよなあ、例えばどかとかにはさあ。どーしたって、今回のプロットがたたえる詩情に、前回の思い出から引っ張ってきたそれを上乗せして観ちゃうものね。依存が、恋愛を飲み込んでいき、二つが合わさり融けていく瞬間、これほど美しい刹那がほかにあるのか?野島伸司のこの開き直りは歴史に残る気がするどか。
でもねー。
でもねー、嘘なんだなー、この美しさはー。「フラット」な演出にだまされて、思わず美しさに浸りきってしまうところだけど、でも、この「鏡面化」は悪魔的プロット、郁己の許されざる嘘に立脚しているのだ。ということは、とどのつまり、依存はついには依存でしかない、という冷めた結論が最終話に待っているのだろうか。第7話はとにかく、このドラマ二つ目のピークだった。おそらく8話目以降、野島伸司の脚本家としての力量を見せつけるような、目くるめく展開と転回が襲ってくるだろうな。この複雑で重層的なプロットを、どうケリをつけていくのだろう?冷静などかは、そんな楽しみ方。
でもねー、もひとりのどかは、もう、かんぺきインボルヴされきってるから、だめー。上戸彩、らぁぶぅぅ。
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