un capodoglio d'avorio
2003年02月08日(土) |
野島伸司「スワンレイク」2 |
この小説を読み終えて、いま、ふと思ったこと。 ドストエフスキーの「白痴」に似てるなーって。 どかはドストエフスキーの中では一番「白痴」が一番好きだった。 ロシアの巨匠による一連の長編の中で、 最もロマンティックな小説に味わいが似ているの、どかにとって。
アン、ドゥ、トロワ、キャトル、サンクという五人の兄弟。 それぞれ、やはり極端なキャラクター設定になっていて、 対比が鮮やかなのね、黄色いレインコートの印象も手伝って、 映像化が容易に読者の頭の中でなされる。 というか、本当に。 これって、絶対、映画化されるだろうという気がする。 かなりかなり、ハードルは高いし、野島さんがコレをドラマではなく、 小説でまず書いたことの理由はよく分かる。
んーでもねー。 たとえばアンは三上博史っぽいもん、どかの中で。 で、ドゥは大沢たかおかな。 トロワはねー、いまだったらきっと中谷美紀。 キャトルは、もう間違いなく、窪塚洋介。 サンクはなー、難しい。 昔の「未成年」やってたころのいしだ壱成かな。 ナナは、当たり前、もう、えっへん、上戸彩。 もう、絶対、決まり。
さすがは、連ドラの脚本家だなーと思ったところは、盛り上げるシーンや、 どんでん返しが、ひたすら巧みなところ。 やや情景描写が弱かったりするんだけれど、そのぶん、 感情の盛り上がりや読者の意識のズームイン、ズームアウトを 自由に操作してくる感じ、悔しいくらいうまい。 読者に仕掛けてくる、二つの大きな「嘘」。 これが見事に効果をあげてるのね、ひとによっては、この「嘘」の使い方、 あざといなーって思うかも知れない。 まー、フリーク歴もそこそこ長いどかはもう、 降参って感じで酔っちゃうんだけれどね。
たとえば「高校教師('03)」の郁巳には、アンが顕在化していて、 その向こうにキャトルがいそう。 雛は・・・サンクが表にいて、裏にキャトル。 悠次は、もうまちがいなく、ドゥだね。 藤村先生は、圧倒的に、トロワだ。 ん、じゃあどかは? どかは・・・分からん。 サンクはいなそう、とりあえず。 でも他人から言わせれば、きっと違うんだろうな (多くの人からは「トロワそのまんま」とか言われそう)。
さて、とりあえず、種明かし。
アン :知性でありモラルの象徴 ドゥ :力であり欲望の象徴 トロワ :美であり自意識の象徴 キャトル:悪意であり、かつ・・・? サンク :寛容でありイノセントの象徴
キャトルは、難しい。 このキャラクターを設定し得た作家は、 これまでと明らかに違うフェーズに到達したことを鮮やかに証明している。 というのも、いままでの野島ドラマは、アン・ドゥ・トロワ・サンクの、 四人だけでほぼ、展開し得たのだから(それも余人のおよばない深度で)。
・・・んーちょっと語弊があるかも、ま、いいか。 男性と女性が愛し合い、結婚し、子供が生まれる。 それはDNAに刻まれた、計算の結果。 母性愛は無条件に注がれる、ということすら欺瞞であり(トロワ)、 セックスに快楽が伴う以上、それももはや欺瞞の網から逃れ得ない(ドゥ)。 ではセックスレスなプラトニックラブを気どればいいのか? そこでは結局、アンは崩壊から免れ得ず、トロワが顕在化してしまい、 歪んだ未来にたどり着くだけだ。
キャトルとサンクがそこで何をなしえるのか。 小説「スワンレイク」は哀しい余韻をたたえて終わる。 それは結局、この世に「愛」は存在しえないことしか証明できてないんだもんな。 しかしそれでもこれは「ハッピーエンド」であるとどかは思う。 なぜか。
誤解を恐れずに言えば、その余韻が、限りなく美しいからだ。
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