un capodoglio d'avorio
2003年02月07日(金) |
野島伸司「高校教師('03)」第5話 |
第5話「真夜中の対決」
今回、ついに野島脚本が走り出したという実感。風景がぐらっと揺らぐ。周りの色が溶けていく。痛みが、怒りが、悲しさが、固形化していく。これまで二本が並行して進んでいたドラマが、一つに交わり出す。混沌。激情。蜃気楼立ち上る、オールウェザーの、400mトラック。
スタート地点に響き渡る号砲は、紅子(ソニン)のレイプシーン。というか、ほぼ、キャスティングの発表時点で、予想された展開。それが、遅いか、早いか、いつくるのか。それが、焦点。第5話というタイミングは、どか的にはジャストっという感じ。
紅子は、母性の象徴としてそこにあるんだろうな。ホスト・悠次はゲームの対象として紅子の気持ちを自らに向けさせかつ、つるんでいる連中に紅子を襲わせた。でも、それは事故だと信じ、悠次を許す紅子。ほぼそのゲームに関しては勝利を確信した悠次が次に定めた狙いは、郁巳。
ようやく、悠次(成宮寛貴)と江沢真美(蒼井優)が、本領を発揮。というか、野島ドラマっぽーい、ぶっとんだシーン。深夜の教室にての、郁巳と悠次の対峙、ガラスのボード、ガラスの駒、ナイト、クイーン、チェスでの勝負。かなりぶっとんだキャラ設定、あるベクトルの純粋結晶としての、悠次。
悠 退屈な日常、つまらない社会、うんざりするアホなヤツら 俺たちは馬車を引く馬じゃなくてね、 上でふんぞりかえっていい景色が見たいのさ ちょっとした事で支配する側にいける いいかい モラルに縛られず、ビビらないで飛んじまえばいいのさ 悩まずにやりたいことをヤっちまう ゲーム感覚でね
ニヒリズムの刹那主義や享楽主義との結託。野島ドラマにある種、嫌悪感を抱く「普通の」方々には、鼻白むセリフなんだろうな、「うそだろ?」って。でも、このバイカル湖の湖底をのぞき込むような、足のすくむ感覚「うそだろ?」。ここに野島伸司の典型的なマジック、巻き込み力を発動させる秘密がある。一般的な世間からの「跳躍」。それは視聴者にとっては踏み絵に等しい。これに着いてこられる人は、幸い。
永遠なんて信じないでしょ?と再三真美から問われてきた郁巳は、一瞬、この刹那主義に飲まれてしまいそうになる。すでに余命幾ばくもないという、悠次たちよりもはるかに適合しそうな条件を抱えてしまっているため、ほぼ、ゲームオーバーがかかってしまっていた。現実に対しては虚無感しかない。ならば、もう一つ、扉を開けてしまえば。悠次が語る言葉は、ひまつぶしの視聴者には響かないが、郁巳や雛の気持ちを精いっぱい想像していけば、破壊力抜群。しかし、チェックメイトをかけたのは、郁巳だった!ギリギリで郁巳が踏みとどまれたのは、
「彼女という希望だったろうか(第5話最後のモノローグより)」
ということ。もう、自分の命が長くないという嘘を信じこまされてなお、明るくけなげに振る舞い続ける、雛の存在。「虚無」から、「快楽」や「刹那」に流れるのではない、「永遠」を志向すること。ただ、その一点のみにおいて、人は踏みとどまれると言うこと。「永遠」とは「愛」。でもそれはひたすら見えにくく、あわく、はかなく、だから「依存」というクッションをおいてみて、それを探るという実験。これこそ、「高校教師('03)」のテーマ。
郁巳が戦っていたように、雛も、葛藤があった。郁巳の主治医の百合子との会話。自らの郁巳に対する感情が「恋愛」では、無いと否定されたあとに・・・
雛 アタシの気持ちは錯覚で、
百 ええ、 雛 しかも片思いにしかならない・・・ バカみたいですね、それじゃあたし。
百 ごめんなさい、仕事柄曖昧な言葉が使えなくて。
「依存」と「愛」は混同出来ない。「同情」と「愛情」は全く別物である。「かわいそうに」は「あいしている」では有り得ない。これは野島さんの左脳から出た言葉だろう。この言葉は雛に対してではなく、その場にいない、郁巳に対して(つまりそれを想像する視聴者に対して)もっとも残酷に響く。しかし雛と郁巳が細々と紡いでいくこの「依存」の糸は、ぎりぎりでほつれず、まだ、繋がっている。それを象徴する、郁巳がクイーンでチェックメイトするシーンや、雛が公園の噴水に鍵を拾いに行くシーンはきっと、野島さんの右脳から出てきたんだろうな。野島さん自身の葛藤でもあるその儚い糸のほつれを見守っていく、どか。でも、あまりにも苛酷なのは、その糸を繋いでいる結び目には、郁巳の「嘘(=悪魔のプロット)」があるということ。最終話、最後のシーンまで、この糸が繋がっていることは、有り得ないだろう。ああ、どうなるんやろ?
どうなるのー?どうなるのー?もぉ、ああ、どうなんねんなー?
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