un capodoglio d'avorio
2003年01月18日(土) |
鴻上尚史「ピルグリム」 |
鴻上の才能はついに、枯れたのか?
1月16日の木曜日、新国立劇場中劇場にてソワレ観劇。前回に観た鴻上は、第三舞台封印公演の「ファントムペイン」。あれは面白かったな。でも、一方で鴻上の限界に触れてしまった感もあったどか。それ以前のkokami@networkの公演は、イマイチどころか、イマサンくらいどか的にはひどかった。
今回は1989年、第三舞台が全盛を極めた時期の脚本の再演。けれどももはや、鴻上を第三舞台の役者たちが守ってくれはしない。そのことが、こんなに痛みを感じさせるとは。
鴻上は役者を育てるのが上手いと思うの。野田やつかが役者を育てるのが決して上手くないことを思うと、それはひとつ、積極的に評価しなくちゃな点だと思う。でもね、野田やつかがプロデュース公演を得意としていたことと比べると、鴻上はプロデュース公演、めちゃくちゃヘタクソみたいだ。
第三舞台がかつて一世を風靡して時代の半歩先をばく進できた最大の理由は、劇団制をとって固定できた役者と、ほぼ「アテ書き」に徹した脚本との絶妙なマッチングなのだ。それを支えたのは信頼関係。鴻上と、大高さんや小須田さんはじめ役者との、幾多の時間を一緒に過ごす中で培った信頼関係があってこそ、第三舞台と鴻上脚本は輝くんだと、今回、すごく思った。
上手いヒトを何人か連れてきて、短時間でハイッ、と舞台を作るプロデュース公演では、いくらワークショップを繰り返しても、鴻上の強い脚本と無骨な演出をつなぐ「信頼関係」はなかなか作れない。野田やつかは、それぞれ異なる方法でこの「短時間」のハードルをクリア出来るのだけれど、鴻上にはどうも、無理なのだ。一人一人の役者が上手くても、それでは点であって、線にはならない。
じゃあその「線」未満の「点」はどうだったのでしょう。お金払ってんだから、何かしら楽しまなくちゃだし、と思って積極的に観たんだけど。
今回主役を張った猿之助一門の市川右近さん、めっちゃくちゃ上手かった、芝居。でもねー、それだけ。上手いだけだった。観客のなかのイメージを広げてくるような刺激に、欠けたな。小劇場系の役者に求められるのは、確立された演技論ではなく、ひりひりするくらい周りを巻き込むテンションであるのに。そぉ、どかが彼を観ていて思いだしたのは、新劇のプリンスの内野聖陽。もう、びっくりするくらい上手でたくさんの役を演じわけることもできるんだけど、感心はするけど感動はしない、みたいな。
それに比べると彼を脇で支えた山本耕史と富田靖子はすんごい良かった。富田靖子は「阿修羅城の瞳」以来かな、新感線と比べると、こっちのが全然イイ。年端もいかないそのへんのアイドルなんてケッとけちらすくらいの迫力と、けれどもコケティッシュなかわいさが同居してる振幅の大きさ。いいなー、かっきー。山本耕史も「ファントムペイン」のときは第三舞台の往年の役者に囲まれて辛かったけれど、ゲイの役を与えられてはじけられた。あの身体のキレはちょっと、他にいないよな、若手で。華もあって、舞台役者としてもうセンターを任せて不安なしなレベル。
・・・でも、その二人だけかな、いじょお!ってかんじ、はー。二人だけでは鴻上の強い台詞を支えきるのは大変なのだ。なんたって第三舞台はきら星のごとく魅力的な役者を揃えて、その全員で「群唱」してやっと支えたくらい強い言葉なんだから。
支え切れてないのはもちろん演出・鴻上だって充分わかって、だからあんなにケレン味たっぷりに、衣装も奇抜で、学芸会的なネタを詰め込んだ演出なんだと思う。でも、もちろん本質的な「脚本」と「役者」の断絶をそんな小手先で埋められるほど、舞台はやさしくないのね。上滑りしていく「言葉」。はー、痛いよ。
そんな「言葉」を集めた脚本、先の述べたようにかなり厳しい限定がかかってしまう脚本だけど、それを差し引いても、それだけ観ると、かなり面白いモノなんだと思う。
「オアシス」と「ユートピア」の対比は、なるほどと思う。理想と組織、仲間と敵、噂と崩壊についての考察も、相変わらずの鴻上節で説教臭くなく、ストレートに見てる人の想像力を喚起してくる(はずだったんだろうな)。ヒトは「ここ」ではないどこか別の「オアシス」を求めて歩き始めるけれど、それはいつの間にか「ユートピア」になっていて、けれども「ユートピア」は案外簡単に目の前に現れたりするのだけれど、決してそれはヒトを幸せにしない。「ここ」ではないどこか別のところは、案外自分のなかに既にあって、それに気づいた瞬間こそが「オアシス」なんだって(ということだと思うの多分)。オリジナルキャストならきっと、もっと重層的に立ち上がったであろう物語。惜しい。
安易にいまはやりの三谷幸喜やキャラメル、新感線みたいにウェルメイドに走らなかったのは、これだけ落ちぶれてもさすが鴻上、と思うけれど。でもこの演出じゃ、この脚本そのままじゃ、もうだめだよ。もしかしたら第三舞台が復活する10年後まで、この人、持たないかもって思う。この舞台は、確かに、鴻上の才能の欠如をあらわすものだった。でも、ここで言う「才能」は、そもそも彼が持っていたわけではなかったの。だから最初の問いの答えは半分イエスで半分ノーだ。
彼は、仲間と仲良く時間をかけていい作品を作っていく「手腕」は確かにあったのだ。決して時代が鴻上を見放したのではない(確かにそう見えるのだけれど)。鴻上が創作するためには、ただ、信頼関係があればいい。でも、確かに時代は変わってしまった。鴻上にその関係を築く余裕を与えるかどうか。それはかなり微妙なのさ・・・。
蛇足。実はこの公演、どかの一つ前の目の前の席に第三舞台の看板役者、小須田康人さんが座ったの。かっこよかったー。もう緊張したー。この人がそのまま、舞台に上がってくれたら良かったのにー。ちぇ。でもすっごいドキドキしたのー。
も一つ蛇足。新国立劇場、めちゃくちゃ豪奢な建築(オリザからクレームつきそうな?)。この内部の設計は、ぜったいあれだ、あれを下敷きにしてる。パリの「オルセー美術館」そっくりだもん。この段々、あー、やだやだ。日本人ってば、わかりやすいのね。印象派好き、はー。
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