un capodoglio d'avorio
2002年12月15日(日) |
大阪日誌3日目(茶筌と辰吉) |
友人と行く茶筌ツアー
昼前、近鉄奈良線で学園前に向かう。いっしょにヨークに行ったマサシに会うため。車で迎えに行くよってゆってたからどんなんかなっておもてたら、黒のオペルやった。「何で外車やねん学生があ」ってつっこんだら「ナンバー見てナンバー!」って。あ、川崎ナンバー、実家の車か・・・
学園前の駅から車で5分ほど走ってこぎれいなイタメシ屋へ、ランチのコースを食べる。トマトのパスタは辛かったけどシャーベット、美味しかったな、オレンジのん。で、色々話す。彼は「奈良先端科学技術大学院大学」で情報科学を専攻してるドクター二年目。相変わらずのマサシ節炸裂で、変ってるよなーと心の中でつぶやく。でもきっとそれは彼も同じだろうな。
ま:「何でまたアカデミックな世界なんてそんないばらの道を。 でもまあ、社会経験があるのは羨ましいよ (俺なんか社会に出てないから不安で)」
ど:「いやいや。なんちゃって社会人やったし、 職場でも浮いてたしなあ。でもヨークに行った男五人、 けっこう総崩れやん? <社会一般の綱渡り>でゆうたらさあ(笑)」
ま:「ははは、そっかあ、ツノもブウもねー、まったく(笑)。 でもアマネは君と入れ替わりに社会復帰するんでしょ」
ど:「ああ、そっかそっか、救いやねえ、まだ」
ま:「でもな、アマネも含めて俺らってさあ、 社会的にはずれてるのは間違いないよね、ははは」
↑これが"NAIST"、なんだか筑波っぽい人工都市・・・
ははは。昼食のあと、マサシの学校を見に行ってそのあと彼の希望で生駒市高山にある「日本唯一の茶筌の里」に付き合う。竹林園という公園の資料館に寄った後、いくつか茶筌屋さんを二人で訪ねる。工房を兼ねてる店が二つほどあってそこで仕事してた職人さんに色々話を聞く。
・・・茶筌って、すごいストイックな世界だ。茶器にも色々あるけれど他と際立って茶筌が切ない理由は、職人の名前が消される「無名性」、一度使うと美しい毛先の細工も全て失われる「一回性」、にもかかわらず職人さんが一つ仕上げるのにかける「労力と時間」だ。なんだかこういう特質って神楽に通じてるな。保存会が神楽を奉納する時も、絶対舞手の名前を表にださへんもん(フリークなら舞手が幕から出てきた瞬間に誰かはわかってしまうんやけど、結果としてね)。職人さんもすごい気のいい人たちで手をとめて話をしてくれた。工房の中に漂う雰囲気が気持ちいい。いろんな要素に居住まいを正す思いなどか。
↑ある茶筌職人さんの工房、中央下部に作成の経過を示す展示がある
マサシと富駅前で別れる、再会を誓って、でも彼はなかなか上京せえへんから今度は大阪で会おってゆって。で、どかは急いで準急に飛び乗る。夕方からは世紀の一戦、テレビテレビ。辰吉丈一郎、復帰線@大阪府立体育館、生で観たかったなあ。
辰吉丈一郎
・・・行け、行け、ん、うん、行け、ヨォッシャッ!
勝ったよ。辰吉。もう、すごい、飽和した、気持ち。嬉しいっていうより、なんかホッとしたな。気が抜けた。心配やったもん。大阪の星。甲子園での「六甲おろし」よりも熱く激しく大音量のコールを受けられる唯一のヒーロー、すごかったなあ、勝った後の。
タッツヨシッ!タッツヨシッ!タッツヨシッ!
スポーツジャーナリストの泰斗、故佐瀬実はかつて薬師寺戦に臨んだ辰吉丈一郎を評し、その天才の「盛りは既に過ぎた」と記した。どかもそれはそう思う。あの柔軟な、かつどこからでも詰めにいける怒涛のラッシュの迫力は、やはり戻らないんだと思う。確かに左のフック、5ラウンドと6ラウンドに炸裂した二発の威力は圧倒的だったけれど、でも相手のモチベーションが少し低いかなとも思ったし。ただ、あのショートフックに代表されるパンチの重さや、律儀に真面目にフットワークを止めずまわりつづける朴訥さ、詰めにいけるチャンスにも慎重に相手のカウンターを警戒する老獪さ、そんななんやかやに天才ではなく苦悩の汗と涙を見た。
そこにあったんは決してかつての「天才と無垢」じゃない。三年と四ヶ月、ブランクを経てなおリングへ上がる恐怖を必死に乗り越えて身体と精神を整えた「努力と勇気」だ。どかは三年と八ヶ月、ブランクは、乗り越えてこそブランクと呼ばれる・・・リングで手を上げるボクサーをブラウン管越しに観つつテレビに向かって呟いて。
(・・・タッツヨシッ、タッツヨシッ)
|