un capodoglio d'avorio
2002年11月24日(日) |
青年団「東京ノート」 |
G1レース「ジャパンカップ」については後ほど、また、書く(書きたくないけど、ふん)。
府中の東京競馬場から木場の東京都現代美術館に向かう、待ちに待った青年団の代表作、観る。 劇場ではなく美術館で芝居を打つ試みの理由は、この戯曲の設定が「美術館のホール」だから。 総合的にみてすごい意欲的でエキサイティングな取り組みに違いなく、 実際、壮麗な建物の階段や渡り廊下をそのまま利用したステージは、感動的ですらあった。 オリザさんはこれで岸田國士戯曲賞を取った、ずーっとどかはこれを観たかった。
↑東京都現代美術館(通称MOT)のエントランスホールのディスプレイ
設定は近未来、ヨーロッパでは戦争が激しくなっていて、彼の地の美術館より、 巨匠の名作が災禍を逃れるために日本の美術館にどんどん入ってきている。 舞台となる美術館も例外ではなく、大挙貸し出された作品を使い「フェルメール展」を開く。 その美術館の待合いホール、いくつかベンチが設置されてそこを訪れる人々の会話をただ、聞く。 それだけの戯曲、BGM無し、効果音無し、スポットライト無し、じみぃな会話劇、沈黙が痛い。 最近のオリザ戯曲の作風と比べるとさらに平板度が極まっていることに気づく、 潔すぎるほどの「静かな演劇」、聞き取れないささやき。 そんな断片的に聞き取れる対話から浮かび上がってくる、詩情、詩情としか、言えないもの。 どかはもう青年団一流のこの作劇法については全面的に信頼してしまっている。 つかの独白や鴻上の群唱と同じくらい、平田の同時多発会話のリアリティを疑わない、でも。 でもどかにとっては、オリザの作劇法のかなたから浮かび上がる詩情こそ、 この劇団から離れられない第一要因なのなー。
他の劇作家と比べてもかなり多作なのに、戯曲による出来不出来があまり無いオリザさん。 それでもこの戯曲は他に優れて傑作であるとどかは思った。 それはアイロニーの巧みさ、台詞に織り込まれるイメージの広がり方が素晴らしすぎるから。 例えばその最たるメタ・キーワードが「フェルメール」である。 さすがはオリザ様で、一応美術史で学部を卒業したどかにも、 全く破綻が見えない水際だったフェルメール評を台詞に織り込んでくるんね。
「フェルメールに出てくる登場人物は窓際で外を向いて立っているのは何故か?」 「フェルメールが絵を描く際に利用したカメラ・オブ・スクーラが象徴するものは?」 「フェルメールと同時代に活躍したガリレオ・ガリレイ、その共通項は一体何か?」
学芸員が美術館を訪れたある女性に向かって説明するそうした内容のいちいちが、 全て青年団の舞台の本質を合わせ鏡のように鮮やかに浮き彫りにしていく。 暗箱をのぞき込む画家の哀しさはすなわち、この舞台を観ている私たちの、さらに、 この戯曲を書いた平田オリザの哀しさでもあるんねー。
どかは水泡のように浮かんでは消える幾つもの対話を聞きながら、 人は人の輪郭から逃れられないという真理の哀しさを想う。 登場人物の立場の相違から生まれるかすかな摩擦熱が、一つの淡い藍色を落とす。 別の対話からはこれも淡い、うぐいす色が生まれ、それぞれが染み渡っていき重なったところで、 さらに美しい別の色彩が生まれる、どかの心の中でどんどん綺麗な織りが広がっていく・・・
有名なラストの「逆にらめっこ」、どかは元からこのシーンを知っていたのに、 役者の台詞の寂しい響きと切ない表情にほろりと来た、うう。
私たちが望遠鏡で宇宙を眺める事はできるけれど、 望遠鏡の向こう側からこちらを観ているとは限らない。
劇中の学芸員の台詞、んんん、深い。
|