un capodoglio d'avorio
2002年11月21日(木) |
RUPプロデュース 「透明人間の蒸気」<4> |
透明人間と盲目の少女の恋物語。 この戯曲のテーマがこれだけであれば、 決して再演という運びにはならなかったであろう。 「熱海殺人事件」「蒲田行進曲」といった戯曲、 または「贋作・桜の森の満開の下」といった戯曲がなぜ、 十年余の時を越えて再演を迎えるのか、否、再演したいと演出家に思わせるのか。 それは単なる刹那的な愛憎劇を越える、本質的なものをそれぞれ照射しているからだ。
今回の場合であれば透明人間となったアキラを追いつめるのが、 果たして誰なのかを考えてみれば明らかだ :「八百万の神々の亡霊」並びに「昭和天皇の軍隊」である。 日本帝国軍人より「肌を無くしてしまった後も生き続けるその存在」は、 天皇の唯一絶対性を犯してしまうほどの危うい超越だとされて追われるアキラ。 翻って過去からの刺客、八百万の神々の軍隊もアキラをスサノオと呼び追いつめる。 綿々と連なる皇家の血筋に挟み撃ちされ追いつめられるアキラを、 「私の神様」と慕うケラは命を賭してかばい守ろうとする。 ケラ自身が心から忌み嫌ってきた「嘘」までつきとおして、 心が痛く引き裂かれても、朗々と既に逃げたアキラは「ここにいる」と宣言する。
・・・んー、すごい。 天皇の軍隊に追いつめられた彼女が守っているのは「実体」のない「神」で、 彼女はそれを守るために哀しいまでに嘘をつき続ける、 その嘘を「皇家」が責めるというすさまじいアイロニーの上に、 あのエキサイティングでロマンティックなラストシーンは裏打ちされていたのだ。 これを近代から現代にかけての天皇にまつわるエピソードへの痛烈な皮肉とせず、 なにをアイロニーと呼べばよいのだろう。 こんなに理屈っぽい、イデオロギー満載の、お利口さんなテーマを掲げつつも、 野田は絶対、直接それを語ろうとはしないのだ、ここがミソだ。
こんなに重層的で象徴的な表現は、唯一、劇場の舞台においてのみ可能である。 これをドラマや映画でやっても恋物語ともう一つの「テーマ」を繋ぐもの、 リアリティと呼べるかも知れないものを現出するのは困難である。 一つの恋愛と、昭和の構造的悲劇とは、心理的観念的にかなりの距離があるからだ。 それを同日に、否、同時に現出させるためには例えば、 筧利夫のあの香気溢れる声の響きや、小西真奈美の美しい身体が俊敏に倒れる様が、 演劇を演劇たらしめる肉体芸術の圧倒的リアリティがあって初めて可能だったのだ。 めくるめくような詩情溢れる野田戯曲の言葉の連なりを、 たたみかけるような圧倒的速度の台詞に変える事の出来る役者たちが、 この観念的大ジャンプを成し遂げるための助走としてアンサンブルを獲得する。 それが理想の野田戯曲のあり方なのだろう。
・・・ここまで書いておいてひっくり返すのも何だけど、 今回の舞台がその助走で必要な推力を手に入れられたかと言えば疑問だ。 何せ、筧は野田とは相性が悪いし、演出も野田ではないのだから。 だからこの舞台では、恋物語に比べてその「本質」が少し浮いちゃたんだと思う。 演出とキャスティングの不備でアンサンブルが達成できなかったからだ。 ま、野田戯曲は野田演出で、筧以外の役者を使うのがベストなのでしょう。 ってか、筧のスケジュールをおさえられたんやったら何故につか芝居をやらんー? あああああ、もったいなあああああいいいいい、次は何年先だか?
そしてそのとき、筧の身体はまだ、敏捷に動くのだろうか・・・ テレビなんて出てる場合じゃ無いのにぃぃぃ。
んなわけでこの舞台のMVPは小西真奈美ちゃんでした。 恋人の姿も見えない、言葉も信用出来ない、でもでもセンティメントには堕さない 「強い無垢」に、とにかくやられました、参りました。
ハイ、降参。
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