un capodoglio d'avorio
2002年11月20日(水) |
RUPプロデュース 「透明人間の蒸気」<3> |
以前にどこかで書いたかも知れないが、役者・筧利夫と野田秀樹の戯曲は、 きわめて相性が悪い気がしていた、どか的に。 VTRでだけど「贋作・罪と罰」を観たときに、あまりにもこの稀代の立役者が、 冴えなさっぷりを露呈していたので、どか自身ヤダになってしまうくらい。 でも、今回の青山では、それほどどか自身ヤダにならなかったのは何故か。 演出が野田じゃなかったからだ・・・
野田の舞台を語るキーワードの一つに「アンサンブル」がある。 野田秀樹は贅沢で多彩な役者を「駒」として使って、 総体として上質のエンターテイメントを達成する事をその主眼としている。 それは堤真一だろうが、唐沢寿明だろうが関係なく、もう「駒」なのだ。 唯一の「駒」じゃないトリックスターとして舞台に上がる例外は自分だけ。 という、恐るべし唯我独尊演劇が夢の遊眠社でありNODAMAPなのだ。 この残酷なまでの割り切った演出は、もちろん責めを負う性質のものではない。 ただ、つかの優しさとは対極にあるのは間違いない。 ともかく野田は「アンサンブル」。
筧はしかし、アンサンブルを作るのはとても苦手な役者だ。 それは役者としては弱点といえるかも知れないが、筧は駒向きではない。 何故、つかの伝説の傑作「飛龍伝」が三度もリバイバルされたのか。 何故それほど熱狂的な支持を獲得する事が出来たのか。 何故つかはインタビューの中で下記のコメントを残したのか。
あの筧君の「飛龍伝」を観なかった人は一生の不幸だとさえ、 僕は思っているんです(戯曲「新・幕末純情伝」巻末インタビュー)。
それはつかこうへいがひたすら筧を立てたからだ。 筧首相、筧大統領、筧教皇さまの魅力を引き出すためだけに、 口立てで脚本を変えていったからだ、そしてつかのその演出に筧は応えきった。 今回演出したのはRUPの岡村さん、つか贔屓の人だ (野田のことももちろん好きなんだろうけれど)。 有り余ってるお金をいらんことばっかしに使う演出をして、今回、 二時間で納めるべき芝居を二時間二十分までおしてしまった、 この二十分という時間こそが、全ていらんことをして芝居を滞留させてしまった、 岡村さんの演出する才能の足りなさだと思っている、どかは、厳しいけど、でもそう (どかがセゾン劇場で観た「新・幕末純情伝」も同じような演出だったもん)。 しかしながら筧と小西に対してつけた演出だけは、良かった。 筧王様で、かなり自由にやりたいようにやらせたんだと思う、 「贋作・罪と罰」みたいな痛々しい筧ではなかったもんね、とにかく。
研ぎ澄まされたセリフ術や磨き抜かれた敏捷な体さばきは、 少し、まだ戻ってない気がする、本調子ではない。 けれども、そもそも積んでいるエンジンがその辺の端役とは比べものにならない。 デリンジャー銃のようなセリフ回しに宿る、克己と誠実。 顔のでかさにも増して空気を染め上げていく大きく広がるオーラ。 ああ、テレビ漬けでダシを取られた後のガラになっちゃった訳じゃないのだ。 ふざけたときの愛嬌と、まじめになったときの誠実さの振幅が、圧倒的に大きい。
舞台上に桁違いのパースペクティヴを実現する筧の激情の疾走に、 観客はぐいぐい引きづられていってしまう、手が痛いけど、 でもこの筧をつかんでしまった左手は離したくない、離せない。 この人ならば絶対最後は気持ちの良い場所に絶対連れて行ってくれる。 そんな確信を筧は観客に持たせてくれるから、だから辛くても引きづられていく。 結婚式の車の後ろの空き缶みたいに、痛くて辛くて、でも。 でも、ハッピーエンドにたどり着くと信じて、引きづられていくのだ(まだ続く)。
|