un capodoglio d'avorio
きょうは芸能研の稽古、どかは大事をとっておとなしく見学、太鼓とか。 咳がなかなか抜けないのー、ちっ。 「自己満足」ということがなんか日記に頻出しているが、 踊りのなかの「自己満足」ってなんでしょう、て。
例えば、幕から出て一通り踊って幕に引っ込んで、拍手が鳴りやみません。 でも、自分ではイマイチ、だったらそれはやっぱりイマイチなんね。 師匠が幕裏に来て「なかなかいいじゃない」と褒めてくれます。 でも、自分ではイマイチ、だったらそれはやっぱりイマイチなんよ。
じゃあじゃあ。
例えば、幕から出て一通り踊って幕に引っ込んで、拍手が鳴りやみません。 自分ではなかなか踊れたんちゃうんコレって手応えを感じて嬉かっても、 師匠が幕裏に来て「どかくん、あそこいまいちだったねえ」って言ったら、 じゃあそれはどうなのか? ゆるーい、程度のひくーい「自己満足」で行くならば、 例え師匠が何を言おうと自分が良ければそれでいい、とするかも。 でもどかはそんなんやだ、やだなんね、そんなんは。 どかは師匠のことを全面的に信頼しているので「ああ、まだあかんねえ」 と素直にうなだれて指摘を受けるでしょう・・・
以下、ふかーい自戒の念を込めて綴るのだが、 どかが練習してる踊りや舞には決まった「型」というものがある。 「型」というのは、誤解を恐れずに言うと、舞い手が誰であろうが、 最終的にはみんな、全く、同じ動きになるはずなのだ、 ぱっと見て全く区別がつかないほど、似通ってくるはずなのだ。 それをちょっと自分に自信が出てきた甘ったれた「自己満足」くんは、 「これが自分の個性で自分の踊りなんだからこれでいいもんね」なんて言う。
アホか、と言いたい。 「個性」と「癖」を、一緒にすんなよ、おいっ、と言いたい。
個性だの、味だの、オーラだの、空気だの、そんなんはね、 踊り始めたばっかしのうぬぼれくんなんかには、 そうそう身に付かないものなんだよ、そもそもが。 あくまで「型」をしっかりしっかり丁寧にトレースして、 「格好良く踊りたいエゴ」だの「見てくれを気にする気持ち」だのが、 薄れて溶け出すくらい、トレースする事に専念して初めて、 「個性」だの「味」だのがうっすら、ほのかに、にじむんだと思う。 でもそれまでにはきっと10年単位の時間がかかるのは間違いないのな。
どかの「自己満足」というのは、その「型」にまず向けられている。 どかという「自分」がいて、神楽の各演目の「型」があって、 それだけの世界、きわめて冷たい、温度の無い世界。 そこには、他人の目が入る必要はないし、他人の賞賛が入る必要もないし、 他人の拍手が入る必要もないのだ、はなから、全く。 そういう意味ではすごいエゴイスティックだし、自分勝手だし、 まさしく「自己満足」という言葉以外に、 ふさわしい言葉が見つからない気がするんね・・・ だからどかの出演を見に来てくれた友人とかには、すごい、 毎回毎回感謝の気持ちでいっぱいでいっぱいで。 こんな超個人的なエゴの行為をただ傍観してもらうだけ。 どかは見に来てくれた人を楽しませようとか、感銘を与えたいなんて、 一瞬の刹那にも感じる事はしたくないからしないもの。 だからこそ、来てくれる人には感謝の気持ちが尽きない、うんそう。
と、言う事をぼぉっと太鼓をたたきながら思っていたどかだった。
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