un capodoglio d'avorio
2002年11月12日(火) |
ヒロトとインタビュー(2) |
さて、昨日の日記は前振りで、このタイトルで書きたかったのは、 すごい珍しいことに、今回、すごい良いヒロトのインタビューがあったんね、 奇跡的、とさえ言えると思った。 その奇跡のインタビューをとったのは「ロッキンオン」「スヌーザー」ではなく、 某バリバリ提灯持ち雑誌の「音楽と○」(自主規制)だったのがいかにもで。 というのは、多分ヒロトとかマーシーはほんまに「怖がりの子供」やから、 志高く自らのスタンスを明示しているインタビュアーから、 ある意味真剣勝負を挑まれると、どうしても意地になってはぐらかしにかかるんね。 でも、提灯持ちの太鼓持ち(謎)が相手でひたすら受けに回ってくれて、 なんでもハイハイと聞くだけマシーンが相手だと (どかはこんなインタビュアーは普段のシチュエーションなら最低だと思うけど)、 ヒロトはそのガードを下げて少し、本音までいかないけど新しい言葉が零れちゃう、 ・・・わずかな可能性がでてくるゆうことなんよね、それが今回。
去年の秋かな、かまぽんと一緒に赤坂BLITZのライブに行ったとき、 彼がぽつり呟いたのは「ハイロウズの歌詞は、いつも少し、痛い」だった。 そう、ヒロトの言葉はいつも、痛い。 つかこうへいの言葉とおんなじように、気持ちいいけれど痛いのだ。 けっして直接私たちを責めたりはしないバンドだけれど、 でもヒロトの真っ直ぐ上を見続ける歌詞を聴いて私たちは勝手に、 自らを振り返ってしまう、そんなに真っ直ぐ空の青さを目に納める事の出来なくなった、 そんな嘘の混じってしまった自分のコンパスのゆがみを思ってしまう。 ヒロトの言葉を自分の真ん中まで届けられるよう、 きちんと心の扉が開く事が出来たヒトほど、 そのときの痛みはひりひり、きりきり、耐えきれないほど増していくだろう。 でもね、一度自分のそのゆがみを知ってしまえば、 一度そのコンパスのねじれを認めてしまえば、 そこからまたスタート出来るという喜びがちゃんと用意されている。 ううん、違う、ハイロウズとヒロトはそんなの用意なんかしない (彼らはステージ上で自分勝手に音楽をならすだけだ)。 用意するのはあくまで、自分、全部、自分。 ヒロトは勝手に歌う。 私たちは勝手に喜びを持つ。 ステージとフロアーでまなざしは決して交差しない。 全ての視線は真っ直ぐ上を向き、BLITZの天井を貫き、 曇天を越えて、夜空の果て、なにかぴかぴか光るものを見据えてるだけだ。
楽しけりゃいいんだもん。自分の人生だもん。お客さんのための人生じゃない。 人間における満足は自己満足以外にないんだから。自己満足が全てなんだよ。 (「音楽と人」12月号より)
このセリフを「脳天気だ」などと、決して、片づけてはならない。 「ああイノセントだね」などと、決して、評することをしてはならない。 こんな「厳しい真実」をあっけらかんと口に出してしまうこの人の、 なんと哀しい美しさだろう、この真実を言語化していくまでの彼の時間を思うと、 どかは涙が流れて仕方がない。 無造作にそんなことを言うのは一人の人間の尊厳に対する、失礼と言うものだ。
膝小僧を抱えていたのは、決して幼い子供ではない。 その膝のあいだのうつろな目は、何も見えていないわけじゃないのだ。
このあとに続くヒロト流「好きこそものの上手なれ」という格言の解釈は、 ここに書けないほど壮絶を極めてて、どかは震えるくらい怖くて、辛くて。 でも、嬉しくて。 「でも嬉しくて」とまだここに書ける自分でいられたことが、自分でとても嬉しい。 そう、まだ、どかは、ハイロウズが好きだ。 そうやって胸を張れる自分でいられることが、どれだけ自分の誇りになるのだろう。
|