un capodoglio d'avorio
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2002年11月11日(月) ヒロトとインタビュー(1)

以前に演劇界では真の批評がまだ形成されていないと書いた。
芝居関連の雑誌も本当に数えるほどしかなく、
そしてその雑誌の記事も決して品質は高くなく「提灯持ち」な
レベルにしかないのが現実である。
それに比べると、音楽雑誌の中には批評を志すものが、
数はやはり限りなく少ないが、ある。
どかの中では「ロッキンオン」と「スヌーザー」が、
編集者やインタビュアーが自らの立場をアーティストの作品に
きちんと対峙させた上で文章を紡いでいるので好感が持てる。
しかし、ハイロウズの記事となると、とたんに難しくなる。
なぜならば、ヒロトとマーシーが無類の「インタビュー嫌い」だからだ。
特に昨年までの「ロッキンオン」にてのインタビューは、
全く双方の会話がかみ合わず、行間から気まずい雰囲気が滲み出てくるくらい、
はー。

ヒロトとマーシー、特にヒロトだけど、
なぜここまでインタビュー嫌いになってしまったのか、
それは時折指摘されてきたように「ブルーハーツ」という
伝説のバンドにおいての経験が彼をそこまで
「追い込んでしまった」という説がある。
甲本浩人という一人の人間の真実と、ヒロトという天才ボーカルの偶像が、
著しくずれてしまったことが、どれほど深い傷を内面に残したのか。
言葉にして自分の精神を語る事は、マイナスにこそなれ、
決してプラスには働かなかったという苦い経験則が、
かつての「ブルーハーツ」ボーカル・ヒロトの中にあるとすれば、
現在「ハイロウズ」ボーカル・ヒロトの姿勢もかなりうなずける部分がある。

新譜を完成させてインタビューを受けるアーティストはたいがい、
今回の作品のポイントは何なのか、どこに成長の跡があるのか、
そういったことをわかりやすく、新しい言葉に落とそうと試みる(ことが多い)。
しかしハイロウズの面々は、新譜を前にしても、

  いやーいつもと同じだよ。

  何も変わらんよ、デビュー当時からね。

  そんな難しい事言われてもわかんねーや。

  目指すゴールなんて無い、強いて言えば、歌ったその瞬間がもうゴールだよ。

などと、編集者泣かせのコメントをずららっと羅列してそれで
インタビューは終了、こんなじゃ決して、
この雑誌を読んでじゃあハイロ聴くかって思うヒトは出てこないし、
レコード会社も、もすこし営業的に大人になって欲しいなあと、
アーチストサイドに要求しているかもしれん。
だって「ロッキンオン」の表紙を飾れるということは、
新譜のセールスにとって、最大の効果を上げる絶好の機会だのにね・・・
でもそう、ここなのだ、ポイントは。

ハイロウズは、聴く側のことなんか全く気にしない人たちなのだ。
だから、誤解を恐れずに言えば、ハイロウズはエンターテイメントですらなく、
究極の自己満足を実践していると言える。
彼らはステージ上で歌う、楽器を鳴らす、音を合わせる、音楽を作る、
けれども、その先のこと、例えば自らのメッセージを伝えるということには、
無関心と言ってもイイくらい無頓着なのだ。
自分たちは自分たちの信じるようにステージ上で気持ちよくなるだけ、
それを誰がどんなふうに喜ぼうが、蔑もうが、気になんかしない。
そこに彼らの子供じみた恐怖心があることをどかは否定しない、
ある意味、コミュニケーションによる価値の共有を否定し、
閉じられた世界にひきこもって怖がってる、またブルハの時みたくいたぶられるのを、
おそれている、膝小僧を抱えた小さな少年のイメージだもんね。

でもこの子供じみた逃避が徹底しているからこそ、
ステージ上ではそれが裏返しになり爆発するのだ。

  砂上の楼閣も空中に放り出してみれば美しい箱庭になる(平田オリザ)

つまりそういうことなのだろう。


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